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悩めるアソシエイト

ラスカー兄弟の恋模様, 第1巻

エメット・ラスカーの部下として働くのは苦痛でしかない。

書類は提出するたびに突き返され、一から見直すため夜遅くまで働く羽目になる。週末も急ぎの案件を振られ、プライベートの予定はいつも台無し。今にも不満が爆発してしまいそうだ。

こんな会社は辞めるべき。そう、絶対に辞めてやる。勤続二年という縛りを全うし、入社一時金の返還義務から解放されたらすぐにでも。

 

その日は散々な一日だった。仕事を終えてそろそろオフィスを出ようかという段になって、例のごとくスプレッド・シートのやり直しを命じられ、深夜残業即決定。

ボーイフレンドからは、「俺と仕事とどっちが大切なんだ」と迫られ、結局、メッセージで別れを告げることに。

お菓子の袋は開かないし、やっと開いたと思ったらそこら中に散乱。挙げ句、パソコンはフリーズしてしまい、せっかく仕上げた仕事もファイル復元が完全にはできない。で、もうお手上げ。

何もかも全部エメットのせいだ!

怒り心頭に発した私は、抗議するため彼のオフィスに押しかけたのだけれど、ひと言も発しないうちに固まってしまった。

なぜならそこで目にしたのは……。

第一章試し読み

今に見てなさい!

この強い屈辱感こそが、近頃では私の原動力だ。

八時前に出社しようと思えば、夜明けと共にベッドから起き出さなければならない。睡眠時間四時間という状況下でそれを三か月近くも続けてこられたのは、生来の勝ち気な性格が成せる技。

「仕事量を減らしてほしいと上司に掛け合ってみてはどうか」と進言してくれる人がいたとしても、そんなことをするぐらいなら飛行機から飛び降りたほうがマシだと思っている。まあ、実際にそうしてしまったら、後悔するどころじゃ済まないのは間違いないんだけど……。

「後悔することになりそうだな」とは、私を採用するときまさにその上司が呟いた言葉だ。

採用を見送るべきだったと悔いているかのようなその発言が、小さな声だったから聞かれてないと思われたのか、逆にわざと聞かせてこちらのプライドをへし折り、暗に他社へ行けと仄めかされたのかは不明だけど、そんなことで引き下がるような私じゃない。本気で辞退させたかったのなら、高い給料やボーナスを最初から提示しなければよかったのだ。

仕事のペースを落としたい、ひと休みしたいと思ってもそうしないのは、あのときの悔しさが未だに根強く残っているから。

負けるもんか。エメット・ラスカー、あと二か月以内に、必ずやあなたに私の実力を認めさせてあげる。デキる社員であると感服させてやる。その上で辞表を突きつけてやるつもりよ。覚悟はいい?

まあ、もしも「会社に残ってくれ」と懇願されたとしたら、考えてあげなくもない。尤も、学生ローンを肩代わりしてもらうのが条件にはなるけれど。

大学の学位とMBA取得を合わせて総額五十万ドル近くかかり、そのほとんどをローンに頼った。自分名義でお金を借りてやろうか、という父の申し出は断った。もう充分協力してもらったのに、あれ以上甘えるわけにはいかないと思ったからだ。

あ、肩代わりさせるよりもっといいことを考えついた。フロリダに家を用意してもらうというのはどうだろう。引退したら海辺に住みたいという父の長年の夢を叶えるため、ビーチフロントの洒落たコテージを一軒提供してもらうのだ。

将来的には私が買ってあげるつもりだったし、試算上不可能ではないものの、それはあくまでも計画通りに人生が進んだ場合に限る。でも大金持ちのエメットなら、いつだってポンと大金を出せるはず。

どうしても会社に残ってほしければ、そのぐらいやってみせなさい。なおかつ土下座して頼んでみなさいよ、辞めないでくれって。

ううん、あの自惚れ屋がそんなことするはずないか。

私の上司が誰かに対して土下座する姿なんか、想像するのも難しい。彼はいつも、病的なほどの自己中心主義。それでいて無駄にカッコいいから困る。たぶん、性格に難ありすぎな人間を創造してしまったと後悔した神様が、外見だけでもマシにしてやろうと気遣い、過剰に補ってしまった結果、あんなにゴージャスな男が出来上がったのだろう。

ふん、私には関係ないけど。

七時四十五分にはロビーに着き、今エレベーターを待っているところ。月曜に会議があるため、財務モデルの最終予測のアップデートが今日の二時までに欲しいと言われ、それをエクセルで仕上げるため、いつも以上に早く来なければならなかった。

二時と言わず、午前中には全部揃えるつもりだ。モデルを無事提出したら秘密のランチ・ミーティングに向かう予定で、そのために今日は身だしなみにも特別気合いを入れている。

午後は今のところ急ぎの仕事が入っていないので、順調にいけば六時には退社し、家に帰って眠りを貪ろうと思っている。たっぷり八時間は寝て、睡眠不足を解消したい。

〈父:ようやく金曜だな。一週間お疲れさん〉

父は最低でも週に三回、こうしてメッセージを送ってくれる。絵文字嫌いなため、いつも自撮り写真付きだ。

写真の中の父は生き生きとしている。背中の痛みがひどそうな様子はないし、新しく雇い入れた従業員に煩わされているような素振りもない。

「あの黄色い絵文字でどんな近況報告ができるっていうんだ? 今は簡単に写真を添付できる時代なんだから、セルフィーのほうがよっぽど雰囲気が伝わりやすい」と言っていたけど、私もその通りだと思う。写真を見ることによって父を身近に感じられるし、今日も元気でいてくれることがわかって安心だ。

父は現在、ラスベガスで自動車整備士をしている。

生まれたばかりの私の世話を押しつけられたとき、文句を言ったり拒否したりできただろうに、父はそのどちらもしなかった。「子供なんか欲しくなかった。いつまでも泣き止まないこの子と一緒にいたら頭がヘンになる」と母から愚痴られ、「もっと楽させてくれるかと思ったのに期待外れだった」と恨まれた挙げ句、一方的に離婚されても耐えたらしい。

そのとき、母は同時に私のことも捨てていった。

当時、父は海兵隊に所属していたのだけれど、生後二か月の赤ちゃんを抱えていては昇進も昇格も望めないと見切りをつけ、軍の仕事をスッパリと辞めてしまった。私を育てるため、私に愛情を注ぐために。

そんな父を私も心から愛している。だから週に数回セルフィーを撮って送るくらいどうってことはない。キャリアを諦め、自分を犠牲にしてまで私の面倒を見てくれた父へのささやかな恩返しだ。

〈私:今日も元気そうで何より。で、これが今朝の私だよー〉

私はニッコリと微笑んで、素早く写真を撮った。照明はいい感じの角度だし、メイクもばっちりだから、目の下のクマは目立たない。おまけに「グランテム・キャピタル」のロゴも背景に入っていて、仕事に対する前向きな姿勢も伝わるだろう。

父は私が、家庭教師や標準テスト対策コースに頼らずSATで満点を取ったことも、大学に進学したことも誇りに思ってくれている。ただの大学ではない、ハーバードだ。

それまで一度も涙を見せたことのなかった父が、合格通知が届いたときと卒業式では男泣きに泣いた。それからも、「ゴールドマン・サックス」で働き始めたとき、ウォートン(ペンシルベニア大学のビジネス・スクール)でMBAを取ったときなど、私がステップアップするたびに涙を滲(にじ)ませるようになった。

今の会社、ベンチャー・キャピタルである「グランテム・キャピタル」への入社が決まったと報告したときは、涙ぐむ代わりに小躍りした。CEOであるエメット・ラスカーがどんなに大物かを知っていたわけではなく、勤務地がLAで、これまでより実家に近くなるのがよほど嬉しかったのだろう。

写真を送ってすぐに返信があった。

〈父:もう会社か。まだ八時前だというのに?〉

早出の理由を説明して、父を心配させるつもりはない。エメットを見返してやろうという企みは、心の中に秘めておくだけでいいのだ。

〈私:ラッシュを避けるために早めに来ただけ。LAの朝の渋滞ってすごいんだよ。そりゃあもう殺人的〉

〈父:早く出社したなら、そのぶん早く出られるのか? そうすりゃ帰りも渋滞に引っかからない〉

「ゴールドマン」に就職したときはあんなに喜んでくれたものの、残業の多さを知ってからの父は、私の健康状態を心配するようになった。「グランテム」ではさらに激務を強いられていると察したらしく、「そんなところはさっさと辞めて、もっと楽な、社員一人ひとりを大切にしてくれる会社に転職したらどうだ。この際、今より遠くに離れたとしても仕方ない。身体を壊されるよりはずっとマシだ」と言ってきた。

金融業界は総じて忙しく、過酷な労働は当たり前。二年を一つの節目と捉えている企業が多く、契約期間満了を待たずに退職してしまった人間については、「金融界で通用しない」という噂が瞬く間に広まってしまう。そうなれば二度と、どこからも雇ってもらえなくなるから、入った以上は頑張るしかない。

そういった内情を説明すると、

「なんてことだ。そんな馬鹿な話があってたまるか」と怒りながらも、直後には、「だが、おまえには誰よりも根性がある。そういうことなら持ち前のガッツで乗り切るしかないな」

と切り替え、今では応援してくれている。とはいえ、心配であることに変わりはないのだろう。

残念ながら、「グランテム」もこの〝二年〟を重視していて、きっちりとした縛りもある。入社前からわかっていたことだけど、それでも雇用契約書にサインしたのは、破格の入社一時金に釣られたからだ。他の会社と比べ、実に二倍以上の額を提示された。ただし、もしも二年以内に辞めてしまったら、〝出来損ない〟のレッテルを貼られるだけでなく、入社一時金の返還も日割りで請求される。

社員全員同じ条件下で入社したのだとすれば、誰もがエメット・ラスカーに白紙委任状を提出したも同然だ。お金を返したくなければ、何事もボスの言いつけに従うしかない。

私の場合、作成した書類を悉く突き返されてやり直しを余儀なくされるため、平日はほぼ残業。大抵は二、三時間かかる類いのものだから、必然的に遅くまで残ることになってしまい、その日どんな予定を入れていたとしてもキャンセルせざるを得なくなる。仕事が週末にまでずれ込んでしまうことも多く、プライベートの予定はその都度変更させられる。睡眠時間が大幅に削られるのは言うまでもない。

けれどそれも、あと二か月の辛抱だ。そのときが来たら、去り際に啖呵を切ってやる、「あなたほど意地悪で非常識な上司はいなかった。ブタに食われて死んじまえ!」と。父にコテージを買い、今までされてきた無礼の数々に関し土下座して謝ってこない限りは、だけど。

〈私:だといいけどね〉

早く帰れるかはエメットの気分次第。あの人には特殊な能力があるらしく、私が帰り支度を始めるタイミングで仕事を言いつけてくることが多い。

何かしら不愉快なことがあって、その腹いせに嫌がらせしているのでは? と勘繰りたくもなるというものだ。

エレベーターが鳴り、ドアがスーッと開いた。

〈私:もう行かなきゃ。じゃね〉

携帯をポケットにしまいながら乗り込み、認証リーダーにICカードをかざして目的の階を押すと、エレベーターが上昇し始める。すると程なくして、携帯が再びメッセージの着信を伝えてきた。父からかと思い、画面を確認した私の機嫌は一気に降下。

〈エメット:ダイヤモンドとパール、どっちがいいと思う?〉

画像が二つ添付されていて、一つにはダイヤモンドのシャンデリア・イヤリングが、もう一つにはパール四つを細いチェーンで繋いだドロップ・イヤリングが写っている。

どちらも超豪華。彼の(今回の)ガールフレンドは、きっと両方とも欲しがるに違いない。

その赤毛の美女なら、写真で一度見たことがある。パーティの席らしく、写真の中でエメットは、彼女と並んで微笑んでいた。わざわざ検索して辿り着いたのではなく、何週間か前に父が送ってきたのだ、そこに写っていたのが私の上司なのかどうか確かめるために。

そのゴシップ・サイトを目ざとく見つけた父は言っていた、「『ゴールドマン・サックス』に勤めていたときの上司の誰一人、こんな形で注目を浴びたことはなかったのに感心だな。この女性ともお似合いだな」と。

いろんな女性と腕を組んでいるエメット・ラスカーの姿が、これまでにも多数目撃されている、とは言えなかった。父の幻想を打ち砕く必要性も感じなかった。

赤毛の美女のイメージを具体的に膨らませようと試みるけれど、如何せん寝不足で頭が回らない。それに正直、ダイヤモンドだろうがパールだろうがどっちだっていい。

〈私:どちらも素敵だと思います〉

〈エメット:それじゃ答えになってない。俺はどっちがいいかと訊いている〉

だからどっちもいいって言ってるでしょ! あとは自分の好みで決めればいいじゃない。

けれど、こうなるとあの人は絶対に譲らない。私がどちらか一方を選ぶまで容赦してくれないだろう。そのくせ自分の予想とは違うほうを選ぼうものなら、「俺が納得できるように理由を説明しろ」と迫ってくるのだから始末に負えない。

なぜアシスタントに尋ねないのだろう。彼のアシスタントはマージョリーといって、いつもオシャレに気を使っている。彼女なら適切なアドバイスができるだろうに……。

女性に贈るであろうジュエリーについてエメットから初めて意見を求められたのは、入社して間もない頃だった。今と同じく画像付きのメッセージが届き、どっちがいいかと質問されたのでコメントを返すと、それからは他のアクセサリーやバッグ類やファッション、果ては余暇の過ごし方まで相談を受けるようになった。

いわゆる〝セカンド・オピニオン〟としてついでに訊かれるだけなら遠慮したいと思い、同じ内容のメッセージを受け取っているかマージョリーにさり気なく訊いてみたのだけれど、彼女の答えは「ノー」だった。

なぜ私にだけ? かすかな疑問は常に抱いているものの、面と向かって尋ねてみたことはない。どうせ単なる気まぐれ以外ではあり得ないからだ。その代わり、「ご自分のセンスを信じてみては?」と、一度だけ水を向けてみたことがある。けれど彼の答えは、「できない」のひと言だった。

そんなに洗練された女に見えるのだろうか、私は。服はセール品しか身に着けないし、アクセサリーは安物で、自分へのご褒美に奮発するとしても、せいぜいキュービック・ジルコニアのピアスを買う程度なのに?

週に百時間近く働かされる上に女性へのプレゼント選びまで手伝わされるとは、全く以て損な役回り。

〈私:特別な贈り物ですか?〉

〈エメット:いや、何となく知りたいだけ〉

目的もなしに〝何となく〟? 思いつきや衝動で何かをするようなタイプじゃないあなたが?

エメット・ラスカーという男はとにかく効率重視で、無駄なことや余計なことを一切しない。何らかの意図がない限り、わざわざメッセージを送ってまで誰かにものを尋ねることもしないはずだ。

おそらく今回は赤毛のカノジョに浮気がバレたか何かで、機嫌を直してもらうため埋め合わせしようというのだろう。きっとそれを、誰にも打ち明けたくないのだ。

〈私:ダイヤモンドのほうでしょうか〉

〈エメット:なぜだ〉

ほらね、こうやってケチをつけるのが大好きなんだから。

〈私:より高価に見えるからです〉

あの赤毛だって、パールよりもダイヤのほうが好きそうだったし。

〈エメット:浅はかだな。値段はほとんど変わらないぞ〉

ああ、そうですか。浅はかで悪うございました。

〈私:事実よりも、見た目のほうが大事な場合もあるのでは?〉

〈エメット:能書きはいいから、自分で買うことを想定してみろ。きみならどっちを選ぶ?〉

そんな無駄遣い、私がすると思う? もし宝石を買えるほどの臨時収入があったなら、学生ローンの追加返済に充てるか、コテージを買う頭金の足しにするわよ。

ま、あなたには想像もできないだろうけど。

〈私:やっぱりダイヤモンドにすると思います。輝きが違いますから〉

〈エメット:キラキラしたものが好きなのか〉

〈私:まあ、そうですね〉

もういいでしょ? あとは自分で決めてちょうだい。

〈エメット:ありがとう。参考になったよ〉

ものの本によれば、上司というものは部下を怒鳴りつけるばかりで礼は決して言わない、などと書かれているけれど、エメットは例外。彼は笑顔で「ありがとう」を言う。それも先制攻撃という形がほとんどで、たとえば夕方の四時を過ぎて新たな仕事を頼んできたり、退社後にデートしている時間を見計らって電話で呼びつけ、書類のやり直しを命じてきたりするとき、最後に必ず「ありがとう」と付け加えて圧力をかけてくる。暴言などは一切ないため、人事部へ苦情の申し立てもできない。

指示通りにしないかできなかった場合の報復は想像するだに怖ろしく、こっちはつい従ってしまうから、怒鳴るという古典的な行為も彼には不要なのだ。

目的の階が近づいたため携帯をバッグにしまうと、やがてエレベーターのドアが開いた。

デスクに着くまで誰とも顔を合わせなかったことから、どうやら今朝は私が一番乗りらしい。

ノートパソコンが立ち上がるのを待っているとき、卓上カレンダーがふと視界に入った。今日の日付を囲む赤い丸とその上の星印は、「ブレア・グループ」のマリオン・ブレアとの会食を示唆している。

「ブレア・グループ」とはバージニア州アーリントンにある、業界内でも評価の高い未公開株式投資会社だ。転職先を探すため、ひと月ほど前に知り合いのヘッドハンターに依頼したところ、一週間もしないうちにそこを紹介してくれた。

Zoomによる面接はすでに済ませ、後日、対面での面接がしたいからバージニアにまで来てほしい、と言われたのだけれど、エメットが休暇を認めてくれるはずはない。転職活動のことは知られたくないし、かといって仮病を使うのもリスクが高そうだ。

先月、病欠したはずの男が空港にいるところを取り押さえられた、という記事がネットに出ていた。なんでも誰かが自撮り写真をインスタグラムに投稿し、そこにその男が写り込んでいたらしい。同じ会社の同僚がたまたまそれを目にしたために発覚し、彼は即刻解雇になったという。

「ブレア・グループ」に事情を説明して泣く泣く断ると、彼らは代案を提示してきた。ジュニア・パートナーの一人が出張でLAを訪れるから、ランチを兼ねて面接しないかと言ってくれ、それが今日だ。気合いが入らないはずがない。

出張のついでとはいえ先方から出向いてくるほどだから、結果は大いに期待できると思う。未公開株式投資会社は残業が比較的少ないと聞くし、希望するポジションにさえ就ければ今以上の待遇が保証され、給料も格段に上がる。学生ローンを完済し、父のマイホームを買ってあげるという夢にまた一歩近づけることだろう。

メッセージの着信音が再び聞こえた。「ブレア・グループ」からの最終確認かと思ったら違った。リックからだ。いつもは九時を過ぎないと起きないのに珍しい。

〈リック:ベイビー、いよいよ今夜出発だね。準備はできてる?〉

〈私:今夜? 準備? 何のこと?〉

〈リック:俺たちの〝半年記念〟旅行だよ!〉

嫌な予感がする。

〈私:旅行に行くなんて聞いてないけど?〉

〈リック:伝えたよ。カレンダーに印つけてね、とも言った。その印をハートで囲んでって〉

そんな会話、した覚えは……、あった! 確かに言われた、記念日だから印をつけて、と。だから自宅の壁掛けカレンダーに丸印をつけたんだった。

ただし、ハート・マークは無し。照れ臭いし、第一、リックに対してそこまでの愛情を抱いてはいない。今はまだ。

それはさておき、記念日と旅行がどう関係してくるのだろう。

〈私:旅行って話にはなってないでしょ? 言ったわよね、私、サプライズは好きじゃないって〉

びっくりさせられたり計画を狂わされたりするのは大嫌い。付き合うことになったとき、はっきりとそう告げたはずだ。前の彼と別れた原因の一つでもあったため、特に強調したつもりだった。

リックも理解してくれたと思っていた。だから安心して付き合ったのに……。

〈リック:サプライズなんかじゃない! Pulse(SNSアプリの一種)のフィードを見てくれって頼んだよな?〉

ああ、確かに。でもあのとき、彼は理由を教えてくれなかった。私にはおもしろ動画やおバカ映像を観る習慣がなく、放っておいたらそのうち忘れてしまった。

〈私:旅行の計画をSNSだけに載せて、私に直接言おうとは思わなかったの?〉

Pulseのアカウントを作成したのは、世界中の人々と繋がるべきだ、とリックに諭されて渋々だった。だから滅多に開いてみることはない。そもそも興味が持てないし、そんなことをすれば睡眠時間がさらに削られてしまう。

〈リック:何か目新しいことをしてみたかったんだ。それに、俺にとってきみがどれほど特別な存在か、みんなに知ってほしかった。エイミー、あの投稿には三千以上の〝いいね!〟が付いたんだぞ〉

だから? さも重要なことであるかのように言わないでくれる?

旅行には行けないと告げるべきだろうか。かといって、付き合い始めた日を覚えていてくれたのに、素っ気なくするのも気が引ける。ただ、〝半年記念〟というのは、どう考えても無意味。付き合って半年の何がおめでたいのか、私にはさっぱりわからない。

〈リック:みんなが羨ましがってるよ、タホの山小屋で週末を過ごす俺たちのことをさ。ガソリンも満タンにしたし、ハイキングやキャンプファイヤーに必要なものも、料理の食材も全部揃えた〉

ハイキングにキャンプファイヤー? 外で料理? しかも、往復二十時間以上かけてタホ湖へ? 冗談じゃない。

彼がもしもPulseに投稿する前に、山小屋やキャンプファイヤーの予約をする前に話してくれていたなら、私は迷いなく代案を提示しただろう。LAからさほど遠くない、海の見えるホテルでゆったり過ごそうと。

前に一度、何をして過ごすとくつろげるか、と訊かれたことがある。そのとき私は、身体を酷使すること以外なら何でも、と答えた。遠回しにアウトドア派ではないと言ったつもりだったけど、ちゃんと伝わらなかったのだろうか。だとしたら、もしかして相当鈍い人?

〈リック:六時になったら、きみのオフィスがあるビルの前まで下りてきて。そのまま出発しよう〉

〈私:待って。無理よ。着替えを持ってきてないもの〉

〈リック:じゃあ、家に帰ったらすぐに荷造りしてくれる? 済んだ頃を見計らって迎えにいくよ。なあに、少々の遅れはどうってことない〉

リックの思い通りに事が運ぶとは到底思えない。なにしろ私が誰かと会う予定だと察知するや否や、〝特殊能力〟の持ち主であるエメットが何某かの用事を言いつけてくるに違いないからだ。これまでも、何度邪魔されてきたことか。

〈私:頑張ってはみるけど、約束はできない。私の予定が上司次第だって知ってるでしょう? 帰りがけに仕事を振ってくるかもしれないの〉

〈リック:華金だよ? ただの金曜日じゃなくて、特別な金曜。俺たちの記念日なんだから〉

たくさんの〝ワクワク〟絵文字を付けてくれちゃって。こっちは〝怒り〟の絵文字を同じ数だけ送ってやりたいってのに!

〈私:半年記念日って、お祝いするものなの?〉

〈リック:当たり前だろ。最近はみんなやってる〉

釈然としない。この一語に尽きるけれど、私には確かめようがない。恋人たちの最新トレンドをチェックするほど、暇人ではないのだから。

〈私:わかった。保証はできないけど、とにかくできる限りやってみる〉

〈リック:そう来ないと! 写真や動画をたくさん投稿して、みんなをもっと羨ましがらせようよ〉

またもやイラっとさせられる。SNS上で注目を浴びることだけが目的なのでは、と疑いたくなってくる。

いいえ、深読みのしすぎ。彼は記念日を祝いたいだけなのだ。

ただ、半年付き合ったぐらいで祝うという考えにも、近況をいちいち投稿するという行為にもモヤモヤしてきて、お互いの認識に大きな隔たりがあるのは否めない。

それでも、努力すると約束した以上は、その約束を守るつもりだ。仮に早く退出できたとして、明るい材料が一つだけある。タホ湖に着くまでの道すがら、ひたすら眠りを貪ればいい。

カレンダーの星印の横に、〝六〟と入れる。〝六か月記念〟のことだけど、万一誰かに見られても、何を意味するかまでは気づかれないだろうし、こうしておけば、間違っても忘れるという愚行を犯さずに済むだろう。

さあ、仕事、仕事。

今日だけは、書類を突き返されないよう完璧に仕上げなければ。やり直しさせられたために行けなくなったでは、リックにも申し訳が立たない。

私はエクセルのファイルを開き、心して作業に取りかかった。

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