プライス家の人々, 第4巻
結婚式専門の写真家であるジンジャー・マックスウェルは、プロポーズまでしておきながらさっさと姿を消した男のせいで、心に深い傷を負った。
どうにか立ち直りかけていた矢先、その男の兄が家に押しかけ、無理難題を吹っかけてきた。
「タイにいる弟を連れ戻してもらいたい」
というのだ。もちろん初めは断ったが、経済的圧力をかけられてしまっては、こちらに選択の余地などなかった。
冒険家シェイン・プライスは、病院で目覚める前までのことをほとんど覚えていない。
パスポートに押された出入国スタンプを頼りにあちこちの国々を巡ってみたものの、記憶を呼び覚ます糸口は掴めなかった。
タイの別荘でぼんやりと過ごしていたある日、以前会ったことのある女性が目の前に現れた。頼まれて、迎えにきたのだと言う。その金髪の美しい女性は、数ヶ月前ヨハネスブルクに滞在していたシェインを訪ねてきたのだが、あのときは体よく追い払った。いきなり婚約者だと名乗られても、記憶がない以上、金銭目的の詐欺かもしれないと警戒したからである。
しかし、一緒に過ごすうち親近感が芽生え、その女性に自然と惹きつけられていく。そして、婚約者だという彼女の話を信じ、これから共に新しい思い出を作っていけばいい、とアメリカへ帰る決心をした。
だが、記憶がすべて戻ったとき何がどう変わるのか、そのときのシェインは知る由もなかった。
そうして、事態はいつの間にか思わぬ方向へ転がり始める。
第一章
「いいんです。こういうときもありますから」
ジンジャー・マックスウェルは、受話器を固く握り締めて怒りを抑えた。
結婚式の記念写真を予約したあとでスケジュールが変更になった場合、予約し直さないと三十パーセントの手付金はふいになる。にもかかわらず、この電話の主も、変更ではなくキャンセルを申し出てきた。
これで何件目だろう。十五件目? いや、十六件目だ。しかも、ここ二、三日に集中している。立て続けのキャンセルによって、数ヶ月先までのスケジュールがまたたく間にがら空きになってしまった。
自分の周りで何かが起こっているのは確かなのだが、それが何なのか、ジンジャーには見当もつかなかった。
深いため息をつきながらカウチに座り、両手で顔を覆った。
十六件分の手付金が手元に残っているお陰で当面の生活費には困らないが、このままではいずれ行き詰まる。どうにかしてスケジュール帳を予約で埋め直さなければならない。
ネットや新聞で広告を打てば、結婚式でのカメラマンがまだ決まっていないカップルから、もしかしたら問い合わせが来るかもしれない。
広告の掲載をどこに依頼しようか真剣に検討していたところへ、玄関のチャイムが鳴った。注文したピザが届いたのだろう。
二十ドル札片手にドアを開けたジンジャーだったが、相手の手にピザの箱はなかった。その代わり、
「金はいらない」
という冷たい声が降ってきた。
元婚約者の兄デイン・プライスが目の前にいると知って、ジンジャーはその場に凍りついた。
私を捨てた人のお兄さんが、どうしてここへ?
「何のご用でしょう」
なんとか言葉を絞り出す。「それに、なぜここがわかったんですか。何ヶ月も前に引っ越したのに」
「保護プログラムの対象者でもない限り、個人の居場所を特定するのは不可能なことじゃない」
デインの声音からは、はっきりと苛立ちの響きが感じられた。「きみが素直にうちの秘書からの電話に応じてさえいれば、俺はわざわざこんなところまで出向く必要なんかなかった」
「それはおあいにくさま。でも、来てほしいなんて頼んだ覚えはありません。それに、こちらにはお話したいことなんてありませんから、どうぞ回れ右してお帰りください」
シェインの両親からもともと良く思われていなかった自覚はあるが、目の前の男を除き、彼の兄妹たちは感じよく接してくれていた。だが、それも妹のバネッサと路上で顔を合わせるまでのことだ。新しいボーイフレンドとのデート中にばったり出くわして彼女に罵られて以来、おそらく他の兄たちからも良い感情は持たれていないだろう。
デインの表情が険しさを増した。
「こっちだって好きで来たんじゃない」
言いながら彼は玄関ドアをぐいと引いて、ずかずかと上がり込んだ。わびしいワンルームマンションに、高価なスーツがなんと不釣合いなことか。
テーブルの上にはノートやらメモリーカードやらが散乱し、画像処理途中のパソコンからはブーンという音がしている。シンクにはピザの空箱が三箱、カウチの後ろにはTシャツやショートパンツが無造作に脱ぎ捨ててある。忙しさにかまけて後片付けができなかった、というより、ジンジャーはもともと整理整頓や掃除が大の苦手なのだ。
こんな乱雑な部屋を見られて決まり悪いことこの上ないが、どうせもう二度と会わない人だ、いちいち気に病むのはよそう。
「今すぐ荷物をまとめろ。パスポートも忘れるな」
ゴチャゴチャした室内を訝しげに見回しながらデインが言った。「二時間で車が来る」
「パスポートですって? あなたのおっしゃってる意味がちょっと……」
「俺のジェット機が空港ですでに待機している。それに乗って、これからタイに飛んでもらう」
「タイ?」
「向こうに着いたら運転手が待ってるから、車でうちの別荘に向かうんだ」
「いきなりタイだなんて、そんなの無理に決まってるでしょう」
「そうは思わんが。なんならピザでも中華でもタイにデリバリーさせる手配もできるぞ、どうしても食いたいならな」
本気とも冗談ともつかない調子でデインが言った。
「何のためのタイですか。結婚式を挙げる人でもいて、急にカメラマンが必要になったとか?」
ジンジャーの皮肉にも動じることなく、彼は冷ややかな笑みを浮かべた。
デイン・プライスの血管に通っているのは血液ではなく氷水だ、というまことしやかな噂を耳にしたことはあるが、それは決して大げさな話ではなさそうだ。
「シェインを迎えに行くためだ。俺としちゃきみにあの家を使わせたくはないんだが、医者のアドバイスがあってね。その医者によると、気心の知れた相手がそばにいたら、あいつの病気も良くなるかもしれないそうだ」
シェインが病気? どこが悪いの?
ダメよ、ジンジャー! あいつはあなたを捨てたのよ、知らないフリまでされて。あんな屈辱を味わわされたのに、今さら気にかけてあげる必要なんかある?
頭ではわかっていても、心が言うことを聞いてくれなかった。
「彼、大丈夫なんですか」
「頭に怪我をしている。治りかけちゃいるがな」
「そうですか」
ホッとしたのは、もちろんおくびにも出さない。
「人を迎えにやったんだが、帰りたくないと言ったそうだ。かといって何もかも放り出して向こうへ行ける者が、うちの家族には今のところ誰もいない。だからきみに頼むしかないんだ」
「頼む? 命令にしか聞こえませんが。それに、お言葉ですけど私だって何もかも放り出すなんてできません。仕事があるんですから」
本当は向こう半年ぐらい暇なのだが、ジンジャーは見栄を張って言った。
「果たしてそうかな?」
「な!?」
その瞬間、カラクリがすっかり見えてしまった。「あなたなんですね、私のクライアントが全員キャンセルするように仕向けたのは!」
「……」
感情のこもらない目で見つめられ、彼女は確信した。
「なんてことをしてくれたんですか! 営業妨害だわ!」
「安心しろ。こっちの頼みを聞いてシェインを連れ戻してくれたら、結婚式なんかでちんたら稼ぐよりもっと多くの金が手に入るぞ。まあ、アルバイトだと思ってもらえればいい」
「信じられるもんですか」
「世間はいろいろと俺のことを噂しているようだが、少なくともしみったれと言われたことは一度もない」
デインがにやりと口の端を吊り上げた。「一度した約束は、何があっても絶対に守る」
「出ていってください。あなたに私の生活費の心配をしていただく必要はありません。蓄えなら十分ありますので」
またしても見栄を張ったのがバレバレなのだろう、デインは挑戦的に言い放った。
「こっちにはもっとある。ついでに言うと〝パワー〟もな。それは今回のことで立証済みだと思うが?」
「……」
「いいか、きみに勝ち目はない。悪いが従ってもらうぞ」
怒鳴り散らしたいのはやまやまだが、この男の言う通りなので何も言い返せなかった。「タイはこっちと違って蒸し暑い。それなりの服を持っていくんだな」
それと、と言って、デインはついでのように付け足した。「あいつ、何も覚えてないんだ」
* * *
ランの花瓶の前に名刺を立てかけ、シェインはカメラのシャッターを切った。午後の遅い日差しが、光沢のある名刺を柔らかく照らしている。
シェイン・ローレンス・アーサー・プライス。冒険家。それが僕の身分らしい。
彼はシャッターを切り続けた。
写真は嘘をつかない、すべてを鮮明に捉えてしまう、だから被写体は隠し事ができない、と誰かが言っていた気がする。あれは誰だったのだろう。
シェインは失われた記憶を辿ろうともがいたが、やはり何も思い出せなかった。だが、こうして写真を撮り続けていれば、それがきっかけとなって、いつか何かを思い出せそうな気もしている。
そもそも自分という人間は何者なのだろう。両親のことは写真でしか記憶にないが、彼らの幻を追い求めようとすると、決まってはらわたがえぐられるように苦しくなる。よほどひどい目に遭わされたのだろうか。それをこの身体が覚えている? それとも言葉の暴力か。あるいはアルコールかコカイン中毒からくる家庭崩壊か。
広いリビングルーム四隅に配置された黒服の男たちを、彼は皮肉な目で眺めた。
ふん、こいつらを雇えるほどの金持ちだからって、プライス家の人間が善良な市民とは限らない。おおかたあくどい事業にでも手を出して、ぼろ儲けでもしたんだろう。
男たちがここに初めて来た日、デインという人物によって送り込まれたと言っていた。一番上の兄だという。
——お迎えにあがりました。お兄様が心配なさっておられます。
ああ、そうだろうとも。
しかし、シェインは従わなかった。というのも、携帯電話の〝電話帳〟にあるグループ登録のうち、〝クソ野郎〟というグループ名には一人の名前しかなく、それが〝デイン〟だったのである。
そこまで毛嫌いしていただろう人間の許へなど、誰が行くものか。
ところが、例の男たちはシェインを放っておいてくれなかった。
——あなたが帰る気になるまで、私どももこちらに滞在させていただきます。
勝手にしろ、と言ったきり、シェインは彼らの存在を完全に無視することにした。デインとやらもそのうち諦めるだろう、と期待して。
外で車の止まる音がしたと思ったら、しばらくして男女の話し声が聞こえてきた。どうやら家の中に入ってきたらしい。
やれやれ、次は何だ。
——帰ってこないと言うなら、母さんを迎えにやるぞ。
デインから確かそんなメールが来なかったか? とすると、両親のお出ましか。
ふん、無視してやれ。面倒くさいのはごめんだ。
シェインは肩に緊張を走らせつつも手の中のカメラを再び操作し、〝被写体〟である名刺に向けてさらに数回シャッターを押した。
玄関のほうで家政婦のピーラヤの、サワディー・カ、と言う声が聞こえた。おそらく両手を胸の高さに合わせてお辞儀をしているのだろう。手と手はぴたりとくっつけず、少しふくらみを持たせているはずだ。見なくてもわかる。
「お荷物をお預かりします」
背中の向こうでドアが開く音がしたが、シェインはわざと聞こえないフリをして、ひたすら撮影し続けた。何の変哲もない自分の名刺を。
カメラにはおびただしい量のメモリーがあり、RAWファイルと呼ばれる画像になる前の生データが自動的に変換されて、勝手にオンラインに記憶されるらしい。ただし、IDもパスワードもわからないので、蓄積された画像を見ることはできなかった。
「シェイン?」
聞き覚えのある声に、シェインは思わず振り返った。母ではない。この人は……、ヨハネスブルグ滞在中、ホテルのスイートに押しかけてきた、あの無作法な女性だ。顔を合わせるなり、なぜ何も言わずにいなくなったのか、なぜ電話にも出てくれないのか、となじられた。
記憶にある通りのゴージャスな外見をしたブロンドで、爽やかなブルーのクロップドデニムがふくらはぎの美しさを強調している。
白いTシャツが少しダブついているところを見ると、あのときに比べて幾分痩せたのではないだろうか。なぜかそんなことが気になるが、輪郭がほっそりして顔つきまで変わって見えるのは、おそらくダイエットに成功しただけなのだろう。
バラ色の唇は、シェイン、と呼んだきり用心深く閉じられ、あのときシェインを激しく睨みつけていた碧い瞳は、今は獰猛な犬でも相手にしているかのように、こちらの反応を窺っている。
そんな目で見るな。シェインはそう言いたかった。そっちが先に僕を警戒させたくせに、これじゃまるで僕のほうが悪い人間みたいじゃないか、と。
「確か、ジンジャーだったね?」
シェインはできるだけさりげなく尋ねた。
「ええ、そう」
まただ。この声。とても懐かしく耳に響く。記憶の底に埋もれている何かが引き出せそうな、そんな予感すら感じさせる声。
ヨハネスブルグで彼女を追い返したのも、この声に引きずられそうになったからだった。
あのとき彼女は、僕たちが婚約していると言った。でも、頭ごなしに怒鳴り込んでくるような女を自分が選んだなんてとても信じられなかった。女性はみんな僕の前にひざまずくのに、何を好んでこんな強気な女に血迷ったというのだ。だから声だけで判断してはいけない。そう結論づけたのだった。
病院で目を覚まして以来、彼は直感に従って生きてきた。そうすれば大概のことは問題なくやってこれた。その直感が今、彼女を手放すな、とくだらない催促をしている。
「何しにここへ?」
「あなたを連れ戻しに。怪我の具合はどうなの?」
「怪我自体はとっくの昔に治って、今はぴんぴんしてるさ」
「それはよかった。だったらアメリカへ帰りましょうよ」
「嫌だね。僕は帰るつもりもないしきみにも用はない。早く出ていかないと、野宿する羽目になっても知らないよ。ここにはきみの泊まれる部屋なんかないんだから」
「じゅうぶん広い家だと思うけど? あなたが帰る気になるまで泊まらせてもらうつもりで来たのよ」
シェインはさっと立ち上がり、意図的に彼女に近づいた。恐がらせるためだが、それは逆効果だったかもしれない。彼女から漂うランとバタークリームの香りに、身体中の筋肉が緊張した。
あくまでもここに居座るというのなら、いっそのこと「寝て」みるというのはどうだ。一度身体を重ねれば、相性の良し悪しがわかる。相性が良ければ当分ここでセックス三昧の生活をすればいい。もっとも、最後まで辿り着けるかどうかは疑問だ。現にこの一年、どんなにいい女と出会っても違和感ばかりが先に立ち、セックスには至らなかったのだから。
だが、ふっくらとした唇を見つめていると、それを味わってみたくてたまらなくなる。彼女の唇がペニスに絡みついたらどんなふうだろうと想像を逞しくしてしまう。
「僕のベッドを僕と一緒に使う気があるなら泊めてもいいけど」
「だったらどこかホテルを探して。もちろん五つ星よ。私、毎日そこから通って根気よくあなたを説得するつもり。それができないならここに泊めてもらうしかないわね。当然部屋は別々で。デインからは元々そうしろと言われてるの」
「デイン?」
「ええ、そう。彼に言われて来たのよ」
「ははん、そういうことか」
デインめ、僕の行動を監視するばかりか、いいように操ろうなんて、何様のつもりだ。あんたの思い通りにはさせるもんか。
シェインは窓辺に歩み寄って携帯を取り出し、短縮ダイヤルの一つを長押しした。電話した先は旅行代理店で、記憶をなくす前から登録していたものだ。ここ数か月ですでに何度か利用している。
『お電話ありがとうございます、プライス様。本日はどのようなご依頼でしょうか』
きびきびした声が電話の向こうから聞こえた。
「タイにあるうちの別荘の近くに、どこか一流ホテルの部屋を一つ取ってくれないか。チェックインは今日だ」
『少々お待ちくださいませ』
保留音がしばらく続き、やがてさきほどの担当者が電話口に戻ってきた。
『大変申し訳ございません、どのホテルも満室でございます』
空きがない!?
「今はオフシーズンだと思ってたけど?」
『おっしゃるとおりでございます。ですが不思議なことにどこも空いておりません。最短で三週間後でしたらお取りできるお部屋がございますが』
「それじゃ六月になっちまうじゃないか!」
『残念ながら、そうなります』
シェインは携帯をギュッと握った。
どこのホテルも六月まで満室? 季節はずれのリゾートが? あり得ない。これもデインの差し金だとしたら、どこまで厚かましい奴なんだ。
「デインがそういうふうに言えって言ったのか?」
『いいえ、そうではございません。デイン・プライス様からはもうずいぶんご連絡が——』
「もういい、わかった」
デインはきっともっとしたたかな男なのだろう。すべての部屋を実際に押さえたとしか考えられない。
電話を切って振り向くと、ジンジャーがまっすぐに見つめてきた。
「どうだった?」
「どこもいっぱいだった」
しかし、ジンジャーは別段驚いたふうではない。
「ビーチ・リゾートなんだからしかたないわね」
「いや、今はシーズンじゃない。だから可能性はただ一つ、デインの仕業だ。あいつはやっぱり〝クソ野郎〟だった」
「あら、あの人を形容する言葉なら他にもたくさんあるわよ。〝気難しい〟とか〝とっつきにくい〟とか〝偏屈〟とか」
そう言ってジンジャーは、初めて花のような笑みを浮かべた。
衝撃だった。みぞおちにパンチを食らったように、その笑顔から目が離せない。
「それじゃあさっそくお部屋に行かせてもらうわね」
彼女は勝手に階段を上り始めた。
ヒューッ、後ろ姿もイケてるじゃないか。これはどうあっても〝試して〟みるしかなさそうだ。
* * *
二階に上がると、ピーラヤが廊下で控えていた。
「ジンジャー様、お荷物はこちらのお部屋に入れておきました。向かいのお部屋はシェイン様が使っておいでです」
「ありがとう」
プライス家の人たちは今ではほとんど家族旅行などしないと聞いていたのに、どうしていつまでもこんなに広い別荘を手放さないのだろう、と前から不思議に思っていた。そこにかつての婚約者と二人きりでいるなんて、考えてみればおかしな話だ。
淡いピンクと金色で統一された女性らしいこの部屋は、シェインの妹バネッサのお気に入りで、ここに来ると必ずこの部屋を使うと聞いたことがある。
天蓋つきのベッドから垂れ下がったカーテンが、各支柱にくくりつけられている。ジンジャーはカーテンに手を滑らせ、そのひんやりしたシルクの感触を楽しんだ。マットレスの端に腰を下ろして、ようやく人心地つく。
去年あんなことがあったのに、シェインは相変わらず私をドキドキさせる。唇を見つめられたとき、過去に堪能したみだらな行為の数々が思い出されて、もう少しでキスをねだってしまいそうになった。
だめよ。
今のシェインは昔のシェインとは違う。よそよそしくて気難しくて、とても扱いにくい。それに、彼が私の許から突如として消えた理由もまだわかっていない。
当時、周りの人々からは、捨てられたのだから諦めろと言われたが、ジンジャーには納得いかなかった。それまでの二人の関係が、とてもうまくいっていたからだ。ところがある日、郊外での写真撮影から戻ってみると、彼の姿はなくなっていた。文字通り忽然と消えたのである。何の前触れもなく。書き置きもなく。
共同で使っていたウォークイン・クローゼットの中は荒らされたような形跡があり、何十着もの服が床に散乱していた。たんすの引き出しも似たようなもので、バスルームに至っては彼のものが何一つ残っていなかった。
心配でたまらなくなったジンジャーは、彼の携帯に何度もメールをしたが、いっさい応答がなかった。数え切れないほどかけた電話も、ことごとく留守電に切り替わるだけだった。
シェインの兄の一人であるマークに電話すると、彼は南アフリカに滞在中だと教えてくれた。そこで大自然に触れながらあちこち冒険して回っているという。
ジャングルの中にでもいるのかと尋ねると、なぜそんなことを訊くのか、と逆に尋ねられた。
——電話にもメールにも応答がないので、電波の通じないところにいるのかと思って。
——さあ、それはないと思うな。あいつから連絡があったのはつい最近だったから。たぶん忙しいだけだよ。そのうちひょっこり電話してくるさ。
そう言ってくれたが、憐れまれているのは見え見えだった。案の定、シェインから折り返しの連絡はなく、何かを知っているはずのマークも、それを教えてくれる気はなさそうだった。
このまま悶々と彼の帰りを待つしかないの?
ところが、ただ待つということができない状況に陥り、思い余った彼女は南アフリカまで出向くべく、マークにもう一度連絡を取った。
——シェインは南アフリカのどこにいるんですか。
——ヨハネスブルグとしか聞いてないんだ。
その情報だけを頼りに南アフリカ最大の都市に飛び、高級ホテルを片っ端から当たって、ようやくシェインを見つけた。しかし、彼は一人ではなかった。ファッション雑誌の表紙を飾るようなゴージャスで背の高いブロンドと一緒だったのだ。
あの光景は今でも忘れられない。
何か事件に巻き込まれでもしたのではないかと心配していたのに、他の女性とのんびり休暇を満喫していたなんて!
感覚が完全に麻痺し、頭の中がパニックになって、いったんは自室に引き上げたものの、すぐにホテルを飛び出した。その足で空港に向かい、一番早くLAに帰れる経由便を探して、アムステルダム行きの飛行機に乗った。
帰国後ひと月以上も、彼女は夢遊病者のようにただぐずぐずと日を送った。何も考えられず、何もする気になれなかった。そのうち生活費が底をつき始め、とりあえず仕事だけは再開することにしたが、ほとんど機械的に、淡々とシャッターを切る日々だった。
数ヵ月後、ようやくある程度自分を取り戻せた矢先に、バネッサと道端でばったり遭遇して言い争いになった。それからさらに数週間して、今度はデインが玄関ドアを叩いたというわけである。
背に腹は変えられない。私の役目はシェインを家に、プライス家に連れ戻すこと。これはデインの申し出た法外な報酬を受け取るためであって、決してよりを戻すためではない。
ジンジャーは決意も新たにベッドから立ち上がった。