忘れえぬ面影シリーズ, 第6巻
父の遺言により、アイルスター・リゾート社を継ぐことになったダニエル・アイルスター三世。彼はセシリア島の大規模なリゾート開発に自身の命運を賭けていた。父の代からの幹部たちに立派な後継であると認めさせるためにも、この事業での失敗は許されない。まずは何があっても期日までにリゾートホテルを完成させなければ、と心に固く誓っている。
ところが、肝心の建設工事が遅々として進まない。
業務委託先であるロイズ・デベロップメント(TLD)に不信感を抱いたダニエルは、施工業者を乗り換えようと試みた。しかし、こちらもスムーズには運ばず、彼は次の手立てを考えるしかなかった。
こうなればTLDのトップとじかに話をつけるしかあるまい。
会談の相手はメレディス・ロイド。亡き妹の親友である。十年ぶりに再会したメリーは、圧倒的な美しさと天使のような穏やかさを備えた女性に成長していた。
メレディスはTLDの代表となって丸一年を迎えようとしている。CEOとしての責任の重圧から逃げ出したくなることもしばしばだが、良き相談役にも恵まれて、忙しい中にも自分の役割をなんとかこなしていた。
しかしある日、大口取引先の一つであるアイルスター社から業務上のクレームをつけられ、メレディスの胸に不安がもやもやと広がっていく。
セシリア島の工事が少々遅れているぐらいはなんとでもなるが、今まで一人で抱え込んできたとんでもない秘密が明るみに出るのを恐れたのだ。それだけは回避しなければ……。
だが、工事の遅れは深刻で、それがどうやら何者かの妨害工作に起因しているらしいと判明したため、二社は合同で調査に乗り出すことになった。
メレディスの警戒もむなしく、ダニエルとの接点は増える一方だ。このままではいつか真実を明らかにしなければならなくなるかもしれない。
陰で糸を引いている人物が強引な手段に出たとき、彼女は何よりも大切なものを守るため、ヒューストンに乗り込んだ。
シリーズ最終作です。どうぞお見逃しなく!
物寂しい共同墓地。落ち葉に覆われた敷地を、作業着姿の男が丁寧に掃き清めている。
十月だというのに風は肌を刺すように冷たく、ダニエル・アイルスター三世はコートの襟を立てた。
低く垂れこめた雲から時おり小雨が落ちてくる。冬の到来がいつもの年より早いのだろうか。
この地に舞い戻ってきたのは妹を埋葬して以来だ。鮮明に残るジュディの記憶は、今も彼を苦しめる。その辛さから逃れるようにアメリカを離れ、二度と戻ってくるつもりはなかったのに、事情がそれを許さなかった。先ごろ父が亡くなったため、会社を継ぐことになったのである。
父は生きている間、あらゆるものを破壊した。ジュディのこともダニエルの心も。その日の気分で子供たちを虐待する酷い父親。
継母は自分の産んだ娘だけは守ろうと、さっさと寄宿学校に送って父親から遠ざけた。しかし、夫の連れ子であるダニエルとジュディはヒューストンにとどめ、夫がやりたいようにさせたのだ。
死んでなお父親に煩わされては可哀相だ。墓だけは別々にしてやりたい。そう考えたダニエルは、父の遺骨だけ祖父母の眠るヒューストンに埋葬した。
わずか十八でこの世を去ったジュディ。父親からのどんな言葉の暴力にもめげず、明るく健気に振る舞っていた。その笑い声が今でも耳の中でこだまする。
あの世というものは存在するのだろうか。そこで妹が幸せに暮らしているのなら、まだ諦めもつくのだが……。
馬鹿な! 現実主義者を豪語するおまえが何を考えている? 死後の世界などあるものか。人生は一度きり。死んでしまえばあとには何も残らない。
ダニエルは拳を強く握った。
もう少し何かしてやれればよかった。一番大事なときにそばにいてやれず、死に目に会うことすら叶わなかった。自分がバリでのんびり遊んでいる間、妹はどこかの病院で医師や看護師だけに看取られて旅立っていったという。ここに埋葬されることになったのはせめてもの救いだ。母の眠るこのバージニアの地に。
墓には美しい花が供えられていた。ジュディの好きだった明るいオレンジ色のデイジーとユリ。まだ置かれて間がないようだ。妹を実の娘のように可愛がってくれたクロード叔父がたむけてくれたものだろう。
ありがたいという気持ちとともに、なんとも言えぬ罪の意識がダニエルを襲った。墓参りも初めてなら、花一輪すら送ったこともなかった不甲斐ない自分が、今さらながら悔やまれる。
車に戻ろうと身を翻した拍子に、さきほどの男とぶつかりそうになった。五十代後半ぐらいの痩せて背の低い男だ。失礼、と言いながら脇によけると、男は、
「見慣れん顔だな」
と言った。
「はい?」
ダニエルは改めて男を見た。白髪交じりの髪が色あせた野球帽の下でふわふわとなびいている。すり切れたオーバーオールを着て、手にシャベルと鍬を抱えている。
「ここを訪ねてくるのはあの女性だけかと思っていた」
あの女性? 誰のことだろう。ダニエルの心に一人の女の顔が浮かんだが、彼はそれをすぐに打ち消した。まさか彼女のはずがない。他人に対してまるで無関心な人間が、こんな寂しい場所にわざわざ足を運んでくれるものか。
「あなたは?」
「テッドだ。墓守だよ。おまえさんぐらいの年のころから、わしゃずっとここで働いているがね、十年前、いやもうちょっとあとからかなあ、その女性がよくやって来るようになったんだ。最初はその人の赤ん坊が亡くなったのかと思っていたが、どうも違うらしいとあとから気づいた」
そう言って男はジュディの墓を見つめながら鼻をすすった。「あんた、そろそろ行ったほうがいいぞ。この分じゃどしゃぶりになる。背中が痛むからわかるんだ」
* * *
プライベートジェットが滑走路に入った瞬間、メレディス・ロイドはシートベルトのバックルに手をやり、ジェット機が止まるか止まらないうちにベルトを外して席を立った。
「お子さんに会いたくてしかたないのですね」
キャビンアテンダントがからかうと、
「ええ。何日も顔を見てないから」
メレディスは資料でパンパンになったショルダーとラップトップの入ったバッグを抱え、出口に向かっていそいそと歩きだした。
ヒューストンに比べ、ノース・バージニアの空気はずっとひんやりしている。彼女はコートの襟を引き寄せて階段を下りた。
息子と会えない日々は辛い。かといってヒューストンに連れていくのも可哀相だ。息子のエリックは学校が楽しくてしょうがないらしく、一緒に遊ぶ友だちも大勢いる。ましてや大好きな伯父さんも住んでいるとあっては、バージニアを離れたがらないのも無理はない。ヒューストンに引っ越しましょう、などと言おうものなら、ずいぶん落ち込んでしまうだろう。そんな姿を見るのは忍びない。自分の勝手な都合で息子を悲しませるわけにはいかないのだった。
待機しているベンツの運転席にナンシー・エルガートンの姿を見つけて駆け出したところで、
「メリー!」
すぐ後ろで呼ばれ、バランスを崩してしまった。もう少しで転びそうになったところを力強い腕が支えてくれる。
「急に走り出したら危ないじゃないか」
メレディスは相手の顔をじっと見た。ハンサムで背が高いその男は、親友だったジュディの兄、ダニエルだった。世界でただ一人、彼女を『メリー』と呼ぶ男。
耳の中で警告音が鳴り響き、メレディスは思考を巡らした。
どうして彼がここに? まさか! いいえ、そんなはずない。落ち着くのよ。この人があのことを知ってるはずはないんだから。
「こ、ここで何してるの?」
「話があるから待っていた。こうでもしないときみに会えないとわかったから」
「どういう意味かしら」
言葉通りの意味さ、と言うダニエルの口調は乾いていた。
まだ腕を掴まれていることに気づき、メレディスは慌てて身を引いた。
「話があるならアポイントを取ってちょうだい」
「じゃ、明日の朝九時に」
「ま、待って。明日は土曜じゃないの」
最近では毎週土曜日に母のところでブランチをとるようになっていた。
ダニエルは皮肉の色をたたえて口許を歪めた。
「週末の朝はベッドでまどろんでいたいって? そんな悠長なことでいいのかな。ロイズ・デベロップメントの代表として会社を立て直そうという気が本当にあるのか」
メレディスは唇を噛んで腹立ちを抑えた。
ロイズ家のファミリービジネスは生き残れるかどうかの瀬戸際にあり、メレディスはCEOとして慣れない仕事に四苦八苦している。だが、それを部外者にとやかく言われる筋合いはない。
「朝寝坊なんかしないわよ。それに、私が何時に起きようと、あなたには関係ないでしょ」
「じゃあ九時で決まりだな。あいにくここできみと押し問答をするつもりはないし、時間を無駄にしたくもないんでね」
その言い方の何かがメレディスを神経質にさせた。
本当は何か知っているのだろうか。話というのは、やはりあのことなのだろうか。
身体が強張ったのを悟られたくなくて、メレディスは彼から距離を取った。
「わかったわよ。どこに行けばいいか、アシスタントに伝えてちょうだい」
「きみの直通番号は?」
「え」
「だからきみ個人の電話番号。使えないアシスタントなんかと話しても埒(らち)が明かないからね」
使えないとはどういう意味だろう。彼からの連絡をアシスタントが取り次がなかったとでも言いたいのだろうか。だとしても、それは何かの行き違いであってほしいと祈りながら、メレディスは自分の携帯番号をメモして渡した。
「ご満足?」
「今日のところはな。続きは明日話そう」
そう言い残してダニエルは踵を返し、彼を待つリムジンのほうへ立ち去っていった。
大またで歩み去る後ろ姿を呆然と見送っていると、
「大丈夫ですか」
運転手のナンシーが心配そうに歩み寄ってきた。「申し訳ありません。お知り合いかと思いましたので、あのかたをお止めしませんでした」
不安にかられた声がメレディスを現実に引き戻し、彼女は無理やり顔に笑みを貼り付けた。
「いいのよ。ほんとに知り合いだから。お友だちのお兄さんなの。もう長いこと会ってなかったんだけど」
二度と顔を合わせることはないと思っていた人。急に目の前に現れて私を不安にさせる人。
「それより早く行きましょ」
メレディスは咳払いをして、努めて明るい声を出した。「あの子に会いたいわ」
エリックをこの手に抱き締めるまで、胸の不安は消えてくれないだろう。