名画をこの手に, 第3巻
二年前、私の世界は一瞬にして崩壊し、以来、苦しい生活を余儀なくされている。毎月お金を融通してくれる奇特な人がいなければ、堕ちるところまで堕ちていたに違いない。
ある日、その恩人ミスター・グレイソンから、ストリッパーになれ、と突然告げられた。ある男を誘惑して結婚にまで漕ぎつけろ、というのだ。〝恩人〟の指示に逆らえるはずもなく、私は仕方なくステージに立った。
ターゲットは、エリオット・リード。
ハンサムでお金持ちの彼が、私なんかを相手にしたがるはずはない。学もなく、将来も見込めず、養っていかなければならない妹まで抱えている私なんかを。
ところが、思わぬ展開が待っていた。
三千ドルでセックスしよう、と持ちかけられ、カッとなって席を蹴ろうとすると、彼は涼しい顔でこう言ってのけた。
「俺と一年間だけ結婚生活を送ってくれたら、百万ドル渡す」
趣味の悪い冗談かと思っていたのに、その目は本気だった。
口座には百ドルも残っていない。妹にはもっとマシな人生を歩んでほしいと願う私にとって、彼の申し出には心そそられる。
ただの素っ気ない好色男かと思っていたら、全然違った。妹にも親切にしてくれるし、私のことをとびきりのデザートを見るような目で見つめてくる。
私を都合よく動かそうとする男と、私をドキドキさせる男。二人の男の狭間で、心は大きく揺れ始めた。
「ぜひ結婚しなさい」
そのひと言を聞いて、不覚にもコーヒーを吹き出してしまった。
「ご、ごめんなさい」
「いや、気にすることはない」
スーツの内ポケットから取り出した真っ白なハンカチを、ミスター・グレイソンが差し出してくれた。
「ありがとうございます」
ほのかに洗濯洗剤が香るそのハンカチでTシャツについたコーヒーを拭き取ると、汚れはほとんど目立たなくなった。
「黒を着ててよかったね」
「はい」
三十代半ばぐらいだろうに、ミスター・グレイソンはいつも堅苦しい身なりをしている。出会ったのはラスベガスで、砂漠からの熱波で気温がぐんぐん上がっていく中、彼は一人だけスーツ姿だった。あのときもだけど、今だってそう。このビストロではみんなラフな服装だから、ちょっと目立ってしまっている。
「私、まだ二十二ですよ? そんなに急いで結婚しなくちゃいけない理由がどこにあるんですか」
私は改めてカップを手に持ちながら抵抗を試みた。
「確かにきみは若い。だが、学問も満足に修めていない、キャリアも金もないじゃあ、先行きは不安だらけだ。ロサンゼルスに移り住んだからといって、何かが劇的に変わるわけじゃないんだよ」
それが正論だとわかっていても、はいそうですか、と素直に従えるような類いの話じゃない。
好きで大学を中退したのではなく、ちゃんと卒業してそれなりのところに就職して、スキルを伸ばしたかった。でも、現実がそれを許さなかった。自分のものだと思っていたものが、ある日突然奪われてしまったのだから。
「それならどうしてLAに行こうとおっしゃったんですか」
引っ越し代はもちろん、ミスター・グレイソンはアパートも見つけてくれ、私と妹が住める環境を整えてくれた。
「いいかいアナベル、これは大きなチャンスなんだよ。むざむざ逃す手はない。相手は相当な金持ちなんだぞ」
私の質問を聞いてなかったの? ここに連れてきた理由をちゃんと説明してよ。
この人はいつだってこうだ。答える必要がないと判断した質問は悉(ことごと)く無視する。以前なら、こんな扱いを受ければ文句の一つや二つぶつけていただろう。でも、今の私は無力だ。彼の援助がなければ、私も妹も生き延びてはこられなかっただろう。
大学中退者を正規雇用してくれるところなんかなかった。いつかは大学に戻るつもりだと力説しようが、意欲的に仕事したいという意志を示そうが同じことだった。そのうえ身元保証人もいないとなれば、まともな職に就けるわけがなかったのだ。
「どうせヨボヨボのおじいちゃんなんでしょう? 歯だって全部抜けちゃってるんじゃないですか?」
自分の末路を想像しつつ投げやりになって尋ねると、ミスター・グレイソンは意外なことを言った。
「いや、まだ二十六だよ」
「そんなに若いなら、自分で花嫁探しをすればいいのに」
「時間がないらしい。すぐにも結婚したいそうだ」
「誰か紹介してくれって頼まれたんですか」
答えがなかったので、別の方向から攻めてみることにする。「どうしてそんなに焦って結婚したいのかしら。何か裏がありそう」
その質問にも答えず、彼は感情を交えずに言った。
「ストリッパーがいいそうだ」
冗談を言っている顔じゃない。むしろ大真面目な様子に、私は唖然とするしかなかった。
「ストリッパー……」
「そうだ。現にそっち系のクラブによく出入りしてるらしい。だからきみもストリッパーとして彼の前に立つんだ。最近通い詰めてるクラブならわかっている」
有り難いことに、今回は口の中にコーヒーを含んでいなかった。
「じょ、冗談じゃないわ! そんなの絶対にイヤです!」
テーブルをバンと叩くと、周りのお客さんたちがびっくりしたように振り向いた。
「いや、やるんだ。それ以外に方法はない」
「いいえ、次の仕事ならちゃんと見つけてみせます!」
「もう一か月以上も見つかっていないのに?」
私は歯を食いしばった。
今やハンバーガーを引っくり返すだけの仕事や、レストランでの下働きの仕事ですら、大学の卒業証書がないと雇ってもらえない。とてもおかしな世の中だ。
「とにかくやるだけやってみなさい」
彼は淡々と続けた。「僕はうまくいくような気がする」
「そうでしょうか。でも、ストリッパーなんてできません」
「きみのためだよ。もちろん妹さんのためでもある。彼女を養っていきたいんだろう?」
「もしかしてこれは……、父への仕返しですか」
ミスター・グレイソンは、心持ち眉をひそめた。
「アナベル、僕がきみのお父さんの出資金詐欺に引っかかって、何もかも失った人間に見えるかな?」
父が多くの人々を騙し続けたのは事実だけど、それをさらっと指摘されて、無性に腹が立った。
「だったらどうしてストリッパーになれと強要するんですか」
「強要なんかしていない。言っただろう? きみたちのためなんだよ。成功すれば生活の心配はなくなるし、妹さんの面倒も見られる」
そう言って、彼は写真を一枚、テーブルに滑らせて寄越した。「これがその男だ」
私はちらりとも見なかった。
「名前は?」
「まだ知らないほうがいい。こういうことは余計な予備知識がないほうがうまくいくもんだ」
「その人に近づいていって、『私と結婚しませんか』って訊けとでもおっしゃるんですか」
「いや」
ミスター・グレイソンの唇が真一文字に結ばれた。「きみほどの美人でスタイルもいいとくれば、必ず彼の目に留まる。それまで待って、向こうから誘ってくるように仕向けたほうがいい」
「仕向ける、んですか?」
「そうだ。大丈夫、必ずアプローチしてきて、そのうちプロポーズしてくるだろう。彼には自分で決めたと思わせるのが理想的だからね」
「そんな都合よくいくとは思えません。頭おかしいんじゃないですか」
「いいや、いたってまともなつもりだよ。じゃあ、いつ、どこに行けばいいか、詳細はあとでメールする」
彼はそう言って立ち上がると、スーツのしわを伸ばして出口へ向かった。
紙コップやナプキンと一緒に、テーブルの上に残された写真もゴミ箱に捨てようと思った私の手が、そこでハタと止まった。ストリッパーと結婚したがる酔狂(すいきょう)なボンボンがどんなバカ面をしてるのか、興味が湧いてきたからだ。
その変人のほうからプロポーズ、ううん、誘いかけてくるようにするためにわざわざストリッパーに身をやつせだなんて、ミスター・グレイソンも何を考えているのだろう。
写真を手に取ってよく見ると、男の顔立ちは予想に反して整っていた。
きれいに撫でつけられた黒っぽい髪、日焼けした肌、すっと通った鼻すじ、太くて男らしい眉。ちょっと横柄に見えるチョコレート色の瞳はどこか温かそうで、包容力さえ感じさせる。いわゆる正統派のハンサムじゃないけれど、すごく目を引くタイプ、そんな表現がぴったりだ。
こんなにステキな人がストリッパーと結婚したがってるの!?
そりゃあ故郷ではそれなりに持てはやされた時期もあったけど、ここはLAよ。綺麗で背が高くてスタイル抜群の美女なら掃いて捨てるほどいる。なのになぜミスター・グレイソンは、私が選ばれると思ってるのかしら。
結局写真を捨てられないまま、私はそれをバッグに押し込んだ。
ストリッパーにはなりたくない。でも、言いつけに背いて今あの人に見捨てられたら、ホームレスのシェルターに逆戻りだ。
ノニーと私が最後にいたシェルターでの出来事が思い出され、私は身震いした。あんな経験は二度としたくない。そのためには彼の指示通りに動くしかない。
要は男の人の前で服を脱ぐだけでしょう? 警備員もいて警備装置も整っているはずだから、誰かに危害を加えられる恐れもないはず。加えて、ストリップに近いことならラスベガスですでに経験済みだ。ミスター・グレイソンと出会ったのも、まさにそういう場所だった。
こうなったらやるしかない。言いつけに従うしか。
* * *
音楽に合わせてステージが回転し、次のストリッパーが目の前で止まったが、さっきから欠伸(あくび)をかみ殺すのにひと苦労だ。兄弟全員の前で「ストリッパーと結婚する」と明言したものの、これは、と思うような娘(こ)になかなか巡り会えない。
だがまあ、こういう形での花嫁探しが俺の性には合っている。
社交界の堅苦しいイベントに参加して、その中の誰かとデートするなんぞ、面倒臭くてやってられっか。想像しただけで身震いしちまう。だいたい、華々しい名声もない俺に、社交界デビューしたての若い娘を差し出そうとする親なんかいるかよ。俺にあるのは金だけだ。唸るほどの莫大な金だけ。それ以外には何もない。ロマンスなんてクソくらえだ。
その点ストリップ・クラブで物色するのは楽しいし、何といっても気が楽だ。ダンサーは商品。だからこっちも遠慮なく品定めができる。
まず、弾力性は大事だから、作り物のオッパイは除外だ。誰にも方法は教えないが、見分けるのは容易(たやす)い。ただし、天然の巨乳の持ち主だからといって、二晩以上続けてヤリたいと思えるかどうかが次の問題だ。そそられない女と結婚しても、空しい生活が待ってるだけだからな。
結婚している間は、相手を裏切らないと決めている。ということは、俺の性欲を完全に満たしてくれる女を選ぶ必要があるということだ。別に相手のためじゃない。父親に弱味を握られたくないからだ。浮気なんかしてそれがバレちまった場合、あいつはまたどんな無理難題を俺たち兄弟に押しつけてくるかわかったもんじゃない。
今日も理想の妻に出会えそうにないな。そろそろ退散して、また明日出直すか。そんなふうに諦めかけていたときだった。ちょっと目を引く娘(こ)がステージに上がった。
普段、特にこういう場所だと、俺の興味は首から下に集中して、顔は後回しだ。なのに彼女の場合、あの顔からどういうわけか目が離せなくなった。
若い。二十歳(はたち)ぐらいか? もしも未成年だとすれば、法律上は酒も飲めないじゃないか。化粧もヘタクソだ。明るすぎる髪色と真っ赤なルージュとでは、ただケバいだけでちっともイケてない。アイシャドウもゴテゴテに塗り過ぎで、せっかくの美しい瞳が台無しだ。化粧の仕方も満足に知らないようじゃ、踊りのテクニックもおぼつかないんじゃないか?
ただ、グリーンの瞳の奥に垣間見える陰。それがさっきから気になって、なかなか立ち去れない。年齢に似つかわしくないその陰は、普通ならしなくてもいい苦労を強いられてきたと物語っている。あの陰の正体を知りたい、心の一部がそう訴えかけてくるのは、単なる好奇心ってやつだろうか。
セックス中の動画を自分で公開したり、高級スコッチを浴びるように飲んでどんちゃん騒ぎをしたり、俺は今まで好き勝手に生きてきた。傍(はた)から見れば破滅的な生活を送っているように見えるかもしれないが、そんなつもりは毛頭ない。これでもすべて計算ずくでやってるから、知らないうちに落とし穴にはまる恐れもないし、混乱の場に放り出される心配もないんだ。
それはさておき、カラダのほうもとっくりと拝ませてもらうとするか。
形のいいオッパイ、線は細いくせに肉感的な腰回り。男をその気にさせるには充分だ。あのつややかな肌に唇を這わせたら、どんな味がするだろう。〝触れなば落ちん〟といった風情がまた、たまらなくそそられる。ふうむ、見れば見るほどいいカラダだ。
思った通り、踊りはド下手だった。他の女たちはポールをうまいこと利用して蛇のように身体をくねらせているのに、その女は単に手足をぎこちなく動かしているだけだ。今まで何十人ものストリッパーを見てきたが、これはいただけない。だが、セクシーさもへったくれもないダンスにもかかわらず、ペニスは凄まじいほどの反応を見せている。
初対面の女に、ここまで欲情したことが未だかつてあっただろうか。
音楽がクライマックスにさしかかったというのに、女はなかなか全裸にならないどころか、動きがまだ硬かった。もしや、緊張してるのか?
見ているのも気の毒になりかけた頃、彼女が踊りながら近づいてきた。トングに紙幣を数枚挟んでやったのに、有り難がるどころか睨みつけてきやがった。ところが、そのグリーンの瞳を覗き込んだとき、どういうわけか俄然楽しくなってきたのだから不思議だ。
「きみには向いてなさそうだ。悪いことは言わないから、他の仕事を探したほうがいいよ」
失礼な言い方をすれば怒って引っぱたいてくるだろうと期待したが、彼女はそうする代わりに唇を固く引き結び、くるりと回れ右して逃げるように〝舞台袖〟に隠れた。
なんだよ。耐え難いほど退屈な夜が、一瞬にしてエキサイティングに変わるかと思ったのに。
俺は肩透かしを食らったような気分で、はなはだ面白くなかった。