名画をこの手に, 第2巻
ライダー・プライス=リードはハリウッドのスーパー・スターにして、男性なら誰もがあんなふうになりたいと願い、女性なら誰もが憧れるようなビリオネア。
そんな彼との結婚を控えているのが私、ペイジ・ジョンソン。
ライダーがプロポーズしてきたのは愛情からじゃない。おじいさんの遺した絵を手に入れるために、何がなんでも結婚しなければならなくなったから。それで私のほうからも条件を提示して、彼と契約を結ぶことにした。
契約内容はごく単純なものだ。一年間の結婚生活を送る代わりに、生まれてくる私の子供を嫡出子としてもらうこと。それだけのはずだったのに、状況はいつの間にか複雑になってしまった。
大スターと平凡な一般人のいわば偽装結婚に、今や世界中の女性たちが激怒している。そんな中、過去の亡霊に悩まされたり、結婚を妨害しようとする正体不明の敵が出現したり……。でも、一番困るのは、彼に本気で恋してしまったこと。
本来なら手の届かないはずの人と、どうやって一年間も一緒に過ごせというの? 無事に乗り切れたとしてそのあとは? 本当にきっぱり諦められるの?
付き添いのかたは外でお待ちください、と言われ、俺は仕方なく廊下に立っていた。
ペイジは俺のことを責めているだろうか。そりゃあそうだろう。あのとき俺がアンソニーに殴りかかりさえしなければ、転ぶこともなかったのだから。そして、さっきの出血はそれが原因に違いないのだから。
だってそうだろう? それまで彼女は妊婦とは思えないほどぴんぴんしてたし、つわりだってなかった。なのに急にあんなことになったのは、絶対に転んだせいだ。
廊下の先に〝待合室〟の表示が見えたので、しばらくそこで待つことにした。
待合室の壁には、がん検診や禁煙など様々な啓発ポスターの他、病院内での注意事項が書かれた紙も貼ってある。
〝医療機器に誤作動などの影響を与える恐れがありますので、指定された場所以外での携帯電話のご利用はご遠慮ください〟。
その一文を目にして携帯の電源を切ったはいいが、ペイジの容態がわからない今の状況で、気を紛らしてくれるものが使えないというのは耐えがたい。縁起でもないことばかり頭に浮かび、どうしたらいいかわからなくなる。
映画撮影用の病院とは違い、本物の病院には独特の匂いがある。何十年にもわたって蓄積されてきた絶望という名の厚い層も。
俺は硬い椅子に座って、野球帽を目深(まぶか)に被った。サングラスで目許が隠れているとはいえ、なにしろ唇の端が切れている。それだけでも目立ってしまうのに、こんなに無防備な場所でライダー・リードだとバレてしまうのは避けたかった。
それでもやはり、あちこちから囁き声が聞こえ、いくつもの目が好奇心むき出しでこっちを見ている。俺はそれらを完璧に無視した。人々との触れ合いは嫌いじゃないが、時と場合による。そして今は、そんな悠長な気分になれるはずもない。
壁の時計は刻々と時を刻むのに、医師や看護師は何も告げに来ない。だんだん尻の感覚がなくなってきて、目もゴロゴロしてきた。
いったいいつまでかかってるんだ? ペイジは大丈夫なのか? それとも深刻な状態なのか? まさか、子供が? いや、そんなはずは……、
「ねえ、映画に出てる人?」
誰かに話しかけられて、俺は物思いから覚めた。見ると、五、六歳の男の子が俺の前に立ち、怪我をした唇をしげしげと見つめている。
「絶対にムービー・スターだって兄ちゃんが言うんだけど……」
俺が何も答えないのを見て、彼はそう言い添えた。
そこへ少年がもう一人やってきた。最初の子によく似た顔つきで、背は少し高い。
「やっぱりな。ライダー・リードだ」
得意げに言ったが、小さい子のほうは俺がスターだという事実よりも、唇の怪我のほうが気になるらしい。
「誰かと喧嘩したの?」
大きい子のほうも怪我に気づき、嬉しそうに顔を覗き込んできた。
「絶対そうさ」
わざわざ左手で拳を作り、それを右の手のひらに叩きつけるしぐさをしてから、「バン!」と大きな声を出したものだから、一瞬で人々の注目を浴びてしまった。
うざい。こいつらの母親はどこ行った? なんとかしてくれ。
俺のイライラにはお構いなしで、年上の子のほうが興奮気味に言った。
「すっごい喧嘩だったんだろ? それで自分じゃ治せないからここへ来たんだ」
「ねえねえ、誰と喧嘩したの?」
小さい子のほうも〝喧嘩〟の話題から離れてくれない。
「決まってるだろ、さっきの女の子だよ」
「どの子?」
「太ってる子。だって、血だらけだったじゃんか」
噂というものはこうやって広まっていくんだな。くそ、こんなデマ、即刻断ち切ってやる。
「女の子(・)じゃない。女の人だ。それに、俺は女の人を殴ったりしない」
「ウソだね」
およそ似つかわしくない冷たい笑みが、少年の顔に浮かんだ。「『リーサル・コネクション』を観たよ。あんたは女と大喧嘩して、そいつを殴ってた。そのビッチは一発で倒れてさ。あれはすごかったよな」
「あ、うん、そうだった!」
年下の少年も映画の内容を思い出したらしく、頭の上に拳を振り上げ、「ビッチは引っ込んでろ!」と叫んだ。
俺は唖然としてそいつらを見た。暴力、過激なセックス描写、淫らな言葉、何でもアリの映画だったから、確かR指定されていたはずだ。
「ちょっとこっちへ」
二人をそばに来させて、俺は小声で言った。「まず、さっきのBから始まる単語は口に出して言っちゃダメだ。汚い言葉なんだぞ。それから、映画に出てきたのは普通の女性じゃない。あれは女性のフリをしたサイボーグだ」
「そうなの?」
年下のほうの子も声を潜めた。「でもさ、殴らなかったんなら、どうしてさっきの女の人は血だらけだったの?」
「ほんとはビッチなんだって。だから懲らしめてやったんだろ?」
弟のほうは素直なのに、兄のほうはまだ汚い言葉を使っている。この年頃の子供は親からいろんなことを吸収する。ということは、この子たちの親はろくな人間じゃないということだ。もしくは、R指定の映画なんか観てるから、こんなに乱暴な言葉遣いになっちまったのか? だが、映画を見せたのは親だ。だからどっちにしても親が悪い。
時限爆弾のタイマーが、頭の中でカチカチと音を立て始めた。
「言ったよな、Bから始まる単語は使うなって。それに、何でも勝手に決めつけるもんじゃない」
「どうしてダメなのさ?」
もしこいつが自分の子供だったら、人前であろうとなかろうと、お尻ペンペンしてやるところだ。俺が答えないでいると、年上の少年はなおも食い下がってきた。
「ねぇ、なんで? 無視すんなよ、バァカ」
「そんなこともわからないんなら、もう話もできないな。あっちへ行くか、ママを探すかしろ。いつまでもしつこくすると、おまわりさんを呼ぶぞ」
恐がらせてやるつもりが逆効果だったと見え、少年二人は大喜びで奇声を発した。
くそ……、いい加減にしろ! 誰か、この悪ガキどもをどっかへやってくれ。
そのとき、女が一人、つかつかと歩み寄ってきた。
「あなた、うちの子供たちに何したのっ!」
はあ?
「なんにもしちゃいない。こいつらが勝手に話しかけてきたんじゃないか。母親なら目を離すな」
女は腰に手を当てて、声を張り上げた。
「んまあ、なんて言い草なの! まるであたしがダメな母親だって言ってるように聞こえるんだけど」
「違うのか?」
「ちゃんと面倒見てるし、目も配ってるし、何が正しくて何が間違ってるかも教えてるわよ!」
「『リーサル・コネクション』みたいに過激な映画を見せてるのに? あれはR指定だろ?」
「あら、ここはアメリカよ。世界で最も自由な国なの。子供たちに何を見せようとこっちの勝手。他人にとやかく言われる筋合いはないわ」
もういい。我慢も限界だ。
「頼むから、そいつらを連れてとっととどっかへ行ってくれ」
できるだけ下手(したて)に出たつもりなのに、母親は気が収まらないらしく、ヒステリックに叫び始めた。
「謝んなさいよ! あたしはちゃんとした母親よ!」
ちゃんとした母親? ふん、どこが。R指定の映画を見せているのは事実だし、子供たちが汚い言葉を平気で使うのも事実じゃないか。親に常識がないから、こんな育ち方をするんだ。
母親の声がどんどんエスカレートしてきて、今や俺たちは、待合室にいる全員の注目を浴びている。
そのとき、若い看護師が一人やってきて、母親のほうに目を向けた。
「奥さん、ここは病院ですよ。あんまり騒がしくされるようでしたら、警備を呼んでこないといけなくなりますが」
この発言が火に油を注ぐ形となり、母親は顔を真っ赤にして金切り声を上げた。
「なんにも知らないくせに、とやかく言わないでよね!」
すると今度は年配の看護師が姿を見せ、俺の肩をそっと叩いた。
「長い時間お待たせしてしまい、申し訳ありません。どうぞ一緒にいらしてください」
心臓が、ドキンと一度跳ねた。表情からは読めないが、ペイジに悪いことが起きたに違いない。
待合室を出て廊下を歩く間、その看護師はひと言も話さなかった。
ペイジはどうなった? やっぱりお腹の赤ん坊に何かあったのか?
もどかしい思いを持て余しながらついていくと、廊下の先にドアがあった。こちらへ、と看護師に促され、俺は中へ入った。
部屋は無人で、安物の椅子と長テーブルが置いてあるのみで窓はなく、映画で言うところの〝スパイを拷問するための小部屋〟、あるいは警察の取調室みたいなところだ。
「ここでお待ちいただいたほうがいいかもしれません。快適とは言えませんが、少なくともプライバシーは保てます」
「ペイジはどうなった?」
「ペイジ?」
「婚約者だ。彼女は無事か?」
「わからないので、ちょっと確認してみましょう」
そう言って立ち去ろうとした看護師が、足を止めて振り返った。「あの、もしよろしかったら氷をお持ちしましょうか?」
「氷?」
ここ、と言って、彼女は自分の唇に手を当てた。「お怪我をなさってるようですので」
「ああ、これね。そうだな、頼もうかな」
すぐに戻ってきた彼女は、てきばきと傷を手当てした上で、氷の入ったビニール袋を手渡してくれた。
「これを当てておけば、少しはマシかと思います」
「ありがとう。じゃあ、ペイジ・ジョンソンの容態がわかったら、すぐに教えてくれないか」
「承知しました」
* * *
途中で意識を失ったらしく、気がついたらここ、ベッドの上にいた。
救急車で運ばれる間、ライダーがずっと手を握ってくれていたのを何となく覚えている。俺がついてるからね、耳元でそう呼びかけてもらったような気もする。
優しくされて嬉しいけれど、この子は彼の赤ちゃんじゃない。だから、彼にしてみれば、目の前で苦しんでいる人間を放っておけなかっただけだろう。
赤ちゃん! 赤ちゃんは大丈夫なの? 流産してたらどうしよう。
パニックに陥りかけたところにドアが開き、医師らしき人が入ってきた。首から聴診器を提げ、手にはカルテのようなものを持ち、それをパラパラめくっている。
ずいぶん若い人だ。眉毛にピアスなんかして、白衣がなければ絶対にお医者さんには見えないだろう。
「あの、赤ちゃんは大丈夫なんでしょうか」
眠っているはずの私が突然尋ねたものだから、相手はびっくりしたように顔を上げた。アジア系の顔立ちだった。
「え? あ、ああ。赤ちゃん。赤ちゃんは無事です。出血ももう止まってますよ」
「ああ、よかった」
私は緊張を解いて、お腹に手を当てた。
「ですが、予断は許しません」
「それはどういう……?」
「血圧が少し高いんです。加えて体重過多なので、このままでは危険です。いわゆるハイリスク妊娠ですね」
ハイリスク妊娠?
その言葉が、耳の奥でこだまする。体重に関しては前の主治医からも注意を受けていたけれど、赤ちゃんに危険を及ぼしかねないとは言われなかった。
「ダイエットが必要だとおっしゃってるんでしょうか」
「妊婦さんに減量しろだなんて、酷な要求なのは重々承知しています。ですから次回妊娠するときは、事前に体重を落としてからにしてください」
この赤ちゃんは諦めろと言われたも同然の言い方。無性に腹が立つ。
「ところで、僕はミンといいます」
「どうも」
「できるだけ早く主治医に相談されたほうがいいですね。どなたですか」
「シルバーマン先生」
本当はまだ会ったこともないけれど、こんなデリカシーのない人に事情を説明する気にはなれない。それで素っ気なく言ったのに、彼はどういうわけかニヤリと笑ってみせた。
「ああ、あの先生。あの人はいい。きっと力になってくれますよ。それではこれで。お大事に」
背を向けかけた医師に、私は慌てて問いかけた。
「あの、婚約者がその辺にいると思うんですが、見かけませんでしたか」
「さあ、僕は気づかなかったけど、看護師に訊いてみますよ」
部屋を出ていく医師を見送ってから、私は携帯を取り出した。
〈長い時間待たせてごめんなさい。もう帰ってもいいみたい〉
メールを送信して何分か経っても、応答がなかった。念のためにもう一度送ってまたしばらく待ってみたけど、やっぱり返事は来ない。
九一一にかけたのはライダーだから、携帯は持っているはず。なのに返事がないということは……、
きっと先に帰ってしまったのだ。ううん、お酒でも飲みに出かけたのかも。
廊下で待ってくれているものと漠然と思っていたけれど、思い違いだったみたいだ。
そりゃそうよね。彼にとって大事なのは私じゃなくて、私と結婚して一年間を無事やり過ごすことだもの。そうすればおじいさんの絵が手に入るから。もっとも、今となっては結婚自体、どうなるかわからないけど。
心にぽっかりと開いた穴を少しでも埋めたくて、私は携帯をじっと見つめた。
ベサニーに連絡したくても、今はできない。例のスキャンダルについて詳しい説明もしていないし、きちんと謝ってもいない。その上妊娠していることを知れば、義姉はきっと混乱してしまうだろう。
鋭いノックの音がして、見知らぬ男がドアを開けた。運転手の恰好をして、手に白い手袋をはめている。
「ミズ・ジョンソン」
彼は礼儀正しく言った。「わたくしはペリー・ファインズと申します。リード様に命じられてお迎えに上がりました」
ライダーに? ここで待たない代わりに、運転手を迎えに寄越したのね。
「ありがとうございます。あの、私の着替えなんて、持ってきてないですよね?」
「はい、申し訳ございませんが、そのような指示は受けておりません」
「そうですか。実はスカートを汚してしまって、このままでは帰れないんですが」
ペリーと名乗った男はおもむろにジャケットのボタンを外して脱ぎ、それを私に手渡してくれた。
「丈が長いので、充分隠れるのではないでしょうか」
「ありがとうございます」
私は言いながらも、彼とジャケットを見比べずにはいられなかった。中に着ている服が全然運転手らしくなくて、違和感を覚えたからだ。でも、他に選択肢がない以上、彼の提案に従うしかない。
「わたくしは廊下でお待ちしております。用意ができたらお声をかけてください」
運転手が出ていったのを確認してから、私は起き上がって着替え始めた。スカートの上に自分のジャケットを巻いて、その上から借りたジャケットを着れば、傍目(はため)からはたぶんわからないだろう。高価なスカートが一日にして使いものにならなくなってしまったけれど、そんなことは言っていられない。赤ちゃんが助かったことが、今の私には何よりも重要だ。
バッグを掴んで病室を出ると、運転手が直立不動でこちらに身体を向けていた。
「退院の手続きをしないといけないので、受付に——」
「その必要はございません。手続きはすでに終わっております」
ライダーらしい。そういうところには気が回っても、着替えのことは念頭にないのね。
彼は誰かの世話をすることには慣れていない。ちょっと前まで、それは私の仕事だったのだから。
ペリーが私の肘に手を添え、外へ導いてくれた。
病院の前に止まっていたのは黒塗りのベントレーで、ワックスが綺麗にかかっている。その後部座席のドアを開けてもらって乗り込んだ瞬間、私はギクリとなった。
ジュリアン・リード。彼がなぜここに?
「ミスター・リード」
「やあ、こんにちは、ペイジ」
顔はにこやかでも、心からの笑顔じゃないのは誰にでもわかる。
ジュリアンとライダーは親子なのにあまり似ていない。ライダーは黒髪だけど、ジュリアンは金髪だ。ライダーは背が高いけど、ジュリアンはそうでもない。そしてライダーは優しいけど、ジュリアンはケチで嫌味なタイプだ。
「じゃ、やってくれ」
運転席に座ったペリーに、ジュリアンはそう指示を出して仕切り板を上げた。