今回のストーリーは前作、『最高の贈り物』にも登場したカーク夫妻の恋物語です。
〔『ダミアン・カークの肖像』のあらすじ〕
伝説のチェリスト、ダミアン・カークは一年ほど前から人目を避けるようにひっそりと暮らしている。
どうやら彼には人に知られたくない秘密があるようだ。
ある日、彼の住む島へ作家のビクトリアがやってきた。過去に出版した本の売れ行きは芳しくなく、起死回生を狙っていた彼女の許へ、ダミアンの伝記を手がける話が舞い込んだのである。
この仕事がうまくいけば、作家として成功できるかもしれない。
期待と興奮に胸を躍らせながらフェリーを降りたビクトリアだったが、うだるような暑さに、早くも気が滅入ってきた。
こんなことではいけない。しっかりしなくては。
気を引き締めてダミアンと対面した彼女は、写真以上にハンサムな男を見て、胸の高鳴りが抑えられなかった。
ところが、話はそう簡単には進まない。
隠したい男と暴きたい女……。
ビクトリアは目的を達成することができるのか!? そしてダミアンの抱える秘密とは?
舞台はカリブ海に浮かぶ小さな島です。
そこでどんなストーリーが展開するのでしょうか。
スピンオフなので、本シリーズをお読みになっていない方々にも楽しんでいただけると思います。
シリーズ第三巻をお読みいただいた方ならおわかりかと思いますが、ダミアンはとても温かい人柄です。しかし、6~7年前は”ツンデレ” どころか “ツンツン” に尖っていました。そんな彼の心が、どういう成り行きであそこまで “デレデレ” に変わったのでしょう!?
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――カリブ海――
防波堤に降り立った途端、灼熱の太陽が容赦なくまとわりついてきた。埠頭近くに『ようこそ、夢の島セントセシリアへ!』という看板が立てかけてある。
「〝夢〟ねえ。〝悪夢〟じゃなきゃいいけど」
はあ、と溜息をつきながら、ビクトリアはそう独りごちた。
これから大事な仕事が控えているというのに、化粧はくずれ、髪もべたついて、気分はどうしても萎えてしまう。汗と湿気でコットンブラウスが肌に張りつくのも不快感に拍車をかけている。
船旅の最後の三十分、カモメの群れが甲高い声で鳴きながら船の上をぐるぐる飛び回っていた。騒々しいだけならまだしも、あろうことか〝落し物〟までされたのだ。シャワーを浴びてさっぱりしたいと痛切に思いつつ、ビクトリアは肩口をふき取った。
埠頭の先におんぼろタクシーが二台ほど客待ちをしていたので、その内の一台に乗り込んだ。幸いエアコンだけは効いており、ホッと一息つけるのが嬉しい。覚えたてのスペイン語のフレーズに身振りを交えて行き先を告げると、運転手は頷いてタクシーを発進させた。
車は緑の生い茂った丘の道をぐるぐると蛇行しながら登っていく。
中腹にさしかかった頃、ふと後ろを振り向いて、ビクトリアは驚きに目を見張った。緑や黄色の木々の葉が美しいパッチワークのようで、それがコバルト色の海に注ぎ込んでいるさまはなんとも心奪われる風景である。
しばらく行くと左手に高原が広がり、さほど大きくはないトタン屋根の建物が見えてきた。建物には商店らしきものが四、五軒ほどあり、どの店先にも品物が所狭しと並んでいる。あれが一応ショッピングセンターのようなものだろうか。
この辺りは他に建物がなく、高原の遥か彼方まで見渡すことができた。
さらに進んだ所で、車は主要道路を外れて脇道へと折れた。舗装されていない路面はでこぼこしており、運転手はのろのろ運転に切り替えて慎重に前を見据えながら運転している。ビクトリアの身体も前後左右に揺れ始め、天井を腕で支えていないと頭を打ってしまいそうなほどひどい道であった。
伸ばした腕が痺れかけてきた頃、タクシーはようやく停車した。
運転手が指差した左手の先にはフェンスや崖に囲まれただだっ広い空間が広がっており、奥まった場所に荘厳な屋敷が立っているのが見えた。谷間にそびえ立つ要塞さながらの光景だ。
えっ、あれがそうなの?
若干腰が引けつつ、ビクトリアは支払いを済ませて車を降りた。再び熱波に襲われるものと覚悟していたのだが、標高が高いせいか風もあり、身構えていたほどではなかった。
スーツケースをずるずる引っ張りながら屋敷へ近づいていくと、敷地の左手から裏側にかけてうっそうとしたマングローブの森が広がっているのが見えた。立ち込めているもやのせいか、怪しげな薬を調合した魔女でもいそうな雰囲気を漂わせている。
かすかに聞こえていた水音が門に近づくにつれて大きくなり、今やその存在を主張している。話に聞いた〝魔の滝〟だろう。
ここの正式名称は〝グレイヘイブン〟なのだが、屋敷の裏手からまっさかさまに海へ落ちる滝に由来して『魔の滝屋敷』と呼ばれているらしい。その大滝から落ちて命を奪われた人も一人や二人ではないという。
セキュリティー装置のようなものはあるが、門にブザーは見当たらない。冷たく閉ざされた鉄格子は、残念ながらビクトリアの力ではびくともしなかった。大声を張り上げてみようかとも思ったが、たとえ滝の音がなかったとしても、屋敷にまで声が届くかどうかは大いに疑問である。携帯電話もあるにはあるが、ここカリブの島々の通信サービスがどこまで普及しているのか見当もつかない。実際に電波が届いているのか怪しいものだ。
管理人はどこにいるのだろうと訝りつつ、鉄格子の隙間から中を窺ってみる。すると、敷地を横切るように川が流れているのが見えた。
家の庭に川!?
その川を目で追っていくと、右手奥のほうに崖が見え、川はその辺りから流れ出ていると思われた。
どうやらフェンスは正面のみで、あとの三方は高い崖や森で囲まれているようだ。大きな岩山を周りが崖になるように切り崩し、平らに均(なら)したところに建物を建てたのだろう。城壁がぐるりと周囲に張り巡らされたようなこの場所は、本当の要塞みたいで近寄りがたい。
どうしてこんなところに屋敷を建てたのだろう。
さらによく見ようと目を凝らしたとき、辺りが急に暗くなった。空を見上げてみると、暗雲が立ち込めている。
一雨来そうな気配だが、ビクトリアには傘がない。旅行会社からは用心のため雨具の準備を怠らないよう忠告されていたのに、出発前夜に慌ただしく荷造りしたせいですっかり忘れてしまったのだ。
ああ、ついてない。ノートパソコンを入れたバッグが防水加工だったのはせめてもの救いだ。
『できるだけ早く傘を買うこと』と頭の中にメモしたものの、目下の最優先事項は別にある。どうにかして中に入れてもらわねばならない。
門をよじ登ったりすれば、不法侵入で訴えられるだろうか。
だが、自分が今日来ることは伝えてあるのだから、入り方がわからなかったと説明すれば許してもらえるかもしれない。
いずれにしろ、門を登って向こう側に降り立つか、屋敷の誰かが気づいてくれるまで待つか、選択肢はこの二つに限られる。
鉄格子を見上げるうちに、なんとかなりそうに思えてきた。
ビクトリアはタイトスカートの裾を少し持ち上げて、門の一番下の棒に片足をかけ、一番上の棒を握って半分までよじ登った。
その時、奥のほうから咆哮が響き渡り、彼女はギクリとして後ろへ飛びのいた。咄嗟のことだったので門の装飾にスカートが引っかかり、生地が太ももあたりまで裂けてしまった。足首を少し挫いたかもしれない。
痛みと恐怖でアドレナリンが一気に噴き出す。
凶暴そうな犬が二匹——一匹は黒、もう一匹は純白——、土ぼこりをまき散らし吠えたてながら突進してくる。
ドーベルマン。無意識のうちに白いほうに目がいった。
白いドーベルマンなんて見たことがない。それにあの目! 真っ赤な瞳が異様に光っている。
すぐそばまでやって来た二匹は、唸りながら鉄格子の隙間に鼻をつっこみ、鋭い牙をむき出して睨みつけてくる。
この門がなかったらどうなっていたかと思うと、わきの下からどっと冷や汗が噴き出てきた。
犬たちはなおいっそう興奮し、前足を高く上げて門に体当たりし始めた。彼らの体重で鉄格子がきしんで揺れる。門が倒れでもしたら一巻の終わりだ。喉を食いちぎられるか、運が良くても大怪我をするのは目に見えている。
恐怖のかたまりが喉を締めつけ、ビクトリアは無意識に後ろへ下がった。暑さと湿気に戦慄が加わって気が遠くなりそうだ。
しかし、気絶している場合ではない。
「いい子たちね、落ち着いて」
刺激しないよう低い声で話しかけてみるも、それが虚勢であると見抜かれているのか、犬たちはさらに激しく吠えたてる。
ありがたいことに門は頑丈そのもので、倒れたり壊れたりする心配はなさそうだ。ビクトリアは少しだけ落ち着きを取り戻し、今度は腕を組んで二匹を見張ることにした。
いつまで吠え続けるつもりか知らないが、こんなに大きな声だからそろそろ誰かが気づいてくれても良さそうなものだけど……。
「アマデウス、ルートヴィッヒ、よせっ!」
少し離れたところから鋭い声が聞こえ、男が一人、足早にやって来るのが見えた。長身で引き締まった身体をカジュアルだが上等な服で包み、手には傘を提げている。
あれは……、彼だ!
ダミアン・カーク、絶大な人気を誇る世界的チェロ奏者その人。かつて、あらゆるコンサートホールで、イベント会場で、その類い稀なる才能とルックスが多くの観客を魅了してきた。
音楽専門誌に載っていた写真もハンサムだったが、やはり実物には叶わない。あの吸い込まれそうな碧い瞳と圧倒的な存在感まで写真で伝えるには無理がある。
ホッとしたのもつかの間、獰猛な犬たちの威嚇とは全く別の理由で、ビクトリアの心拍数が跳ね上がった。ダミアンに鋭く凝視され、顔が火照って仕方ない。化粧は汗でくずれ、髪はベタベタ、肩には鳥の糞、加えてお気に入りのスカートは台無し。スターである彼の目に自分がどう映っているかと思うと、情けなくなってくる。
「きみは誰だ」
とげとげしい物言いにもかかわらず、その口から発せられるバリトンに鼓膜がくすぐられ、不本意ながら心ときめいてしまう。気がつけば、犬たちへの恐怖心はどこかへ消えていた。
ぼーっとしてどうするの、と自分を叱りつけ、ビクトリアは門に近づいた。
「カークさんでいらっしゃいますね。私はビクトリア・ベネディクトと申しまして、本日伺うお約束を」
できる限り毅然とした態度を貫きたいところだが、またもや犬たちが突進してきたので、鉄格子を掴んだ手を慌てて引っ込めた。
「アマデウス、ルートヴィッヒ、座れっ!」
二匹はしぶしぶ命令に従ったが、目はビクトリアから離さない。
ダミアンは彼女に視線を戻し、
「ああ、他人の生活に干渉するのが大好きな物書きが来るとか言ってたな、そういえば」
拒絶の意思を隠そうともしない。
「もっと不細工なおばさんが押しかけて来るかと思ってたんだが」
傲慢な言い方と値踏みするような目つきにすっかり腹が立ってしまったビクトリアだったが、プロ意識でその腹立ちを押さえ込み、そつなく答える。
「恐れ入ります」
「褒めてないぞ。きみがそうじゃないとは言ってない。想像したほどひどくはなかったと言ってるだけだ」
ビクトリアは面食らってしまった。なんて失礼な人!
だいたい、人の年齢に文句が言える立場なのか。彼は確か三十一才、私はまだほんの二十六だ。前言撤回。この人のことを一瞬でも素敵だと思った自分が情けない。
とっとと帰ってくれ、と剣もほろろな言い方に、ビクトリアの闘志はかき立てられた。
「それは無理です。すでに契約書を交わしておりますし」
「そんなもの、破り捨てちまえばいい。簡単なことだ」
「契約解除の意思はありません、信用に関わりますから」
金色の眉を吊り上げ、「それじゃ仕方ない、交渉決裂だな」と言って空を見上げると、ダミアンはおもむろに傘を開いた。それが合図ででもあったかのように雨が降り始め、みるみる激しくなってくる。ビクトリアはあっという間にずぶ濡れになり、衣服が身体に張り付いてしまった。
どしゃぶりの中、彼の表情を窺うことすら難しい。
「カークさん、お願いです——」
しかし、彼はすでに踵を返して立ち去ろうとしていた。犬たちもそのあとを小走りに追っていく。
ダミアン・カークが道の向こうへ消えていく気配に失望感は拭えない。
なんとしてもインタビューを取り付けなきゃいけないのに。私の命運はこれにかかっているのに。でも、どうすれば?
雨に濡れた鉄格子をギュッと握り締めたきり、ビクトリアはなす術(すべ)もなく立ち尽くしていた。
* * *
建物に戻ってドアを閉めると、玄関ホールは薄闇に包まれた。
屋敷の中はいつもこんなもので、ダミアンはもう慣れっこになっていた。世間の目から逃れ、真実を闇に葬るためにやってきてそろそろ一年になる。ここは彼にとって理想の隠れ家だ。
傘の雫を振り落とす主人を見て、犬たちも右へ倣(なら)えとばかりに体をブルブルさせた。
「水浸しじゃないか。だからうちの中にいろと言っただろ」
泥だらけのサンダルを脱ぎ、こんな時のために用意しておいた雑巾でフロアの汚れを拭き取る。
「いいか、スコールの時は外へ出るな」
叱ってみせはしたものの、二匹が外で一緒に遊べる数少ない機会だとわかっているので、強くは命令できなかった。純白のドーベルマン、アマデウスは日差しの強いときには外へ出られない。そして、この時期のカリブは晴天の日が多いのだ。
ついて来い、と犬たちに声をかけて、ダミアンは濡れた雑巾をドアの近くの籠へ放り投げた。
らせん階段の途中の壁にはたくさんの肖像画がかかっている。髭のはやし方で年代がわかるほど古めかしいものばかりだ。
二階の堅木(かたき)張りの廊下にも光はほとんど届かず、壁に沿って並んだ古いガス灯はいずれも灯りがともっていない。
ダミアンは五つ目のドアを開けて書斎に入り、古びた本や木、ワックスの香りを吸い込んだ。
高さ四メートルほどの書棚が部屋の片側を占めており、高い所に収まる本を取るためにスライド式の梯子も備えつけられていた。壁にはめ込まれたぜんまい仕掛けの古い時計が、ひっそりと振り子を揺らしている。
部屋の中央にはブラックチェリー材の机、その手前にふかふかのソファー。そして、机と窓の間にある革張りの椅子が主(あるじ)の帰りを快く迎えてくれた。
犬たちもそれぞれの定位置に寝そべって、早くもくつろいでいる。
カーテンを開けて窓越しに門のほうをちらっと見てみたが、激しい雨に遮られて視界がぼやける。道沿いのヤシの木が強風にあおられているのは見えた。
この雨だ、さすがにもういないだろう。
念のため、ちらかった机の上から双眼鏡を見つけ出して覗き込んでみると、なんと彼女はまだ同じ場所に立っていた。顔つきも判別できないほどの雨の中で、無実の罪を着せられた囚人のように鉄格子を握り締めている。風でスカートがはためきスーツケースはぬかるみに転がっていた。
いったいあそこで何をしている!? 俺ははっきり断っただろ。彼女だって理解したはずだ。
ダミアンは歯を食いしばった。
〝不細工〟という言葉とは程遠い女だった。いや、正確には全く逆だったと言っていい。なめらかで白い肌、濃いチョコレート色の瞳、ふっくらとした唇。何もかも細部に渡って思い出せそうだ。
きまりの悪さから憎まれ口をたたいてしまったが、本心は全く別のところにあった。門の外に立つビクトリアを見た瞬間、思いがけず欲望が心を鷲掴みにしたのだ。あそこに出て行って雨や風から彼女を守ってやりたいという筋の通らない思いにかられてしまう。
しっかりしろ! 彼女はここにいるべき人間じゃないんだ。あの門を開けてやるということは、パンドラの箱の鍵を渡すようなものだぞ。
彼は双眼鏡を固く握り締めた。
ずっとそうしてればいいさ。きみは自分が何をしてるかわかってるんだろう?
意地の悪い思考は、しかし彼を愕然とさせた。他人への小さな親切さえできないヤツに成り下がっちまったのか。そもそもこうなったのは彼女のせいなんかじゃない。俺が誰とも会うつもりがないのを、ミランダが〝うっかり〟伝え忘れただけだ。大切なストラディバリウスを賭けてもいい。
「でも、頼むから帰ってくれ」
ぼそぼそとつぶやきながら双眼鏡を下ろし、窓から目を背けてカーテンを閉めた。
机には何ヶ月も目を通していない書類の山。その一番上にあるマネージャーのミランダ・クロスからの手紙を一瞥し、くしゃっと丸めてゴミ箱に放り込んだ。
(どんなに無視しようとしたって、おまえは外にいるあの女が欲しいんだろう?)
心の声がささやきかける。
雨に濡れた服が張り付いて露わになった身体のライン、あの姿が頭から離れない。
バカな子!
母の言葉が突然蘇ってきた。あんたみたいな人間が高望みするんじゃないわよ。
その通りだ。俺にはそんな資格なんかない。それに、何事にも犠牲はつきものだ。彼女と親しくなってしまったら、その代償は高くつくかもしれない――秘密の露見という形で。決して誰にも知られたくないこと、五十年、百年先の音楽史で語られることがあってはならないもの。
ブラームスやシューマンのように恥を晒したいか?
答えは〝ノー〟だ。
窓を振り向き再びカーテンを開けて確かめると、ビクトリアは未だにどしゃぶりの中にいた。
いつまでそうしてるつもりだ! 肺炎にでもかかったらどうする。くそっ!
たたきつけたくなるのをこらえて双眼鏡を机の上に戻し、ダミアンは顔をしかめながら部屋を飛び出していった。
* * *
どうしよう。
ビクトリアは途方にくれていた。
この島にはホテルがないという。タクシーはとっくに引き返してしまっているし、どっちにしたって家に帰るという選択肢はない。はるばるこんな遠くまで来たのに、今さら諦めて引き下がるわけにはいかなかった。
だからといって、良い知恵は何も浮かばない。
島に来る前に仕入れた彼のプロフィールを思い起こしてみる。
広範囲にわたって調査したところによると、ダミアン・カークはアメリカ生まれ。ヨーロッパの学校で教育を受け、両親とは離れて暮らした期間が長い。複数の言語が使いこなせる。八才の時、周りからはすでに神童と謳われていた。
初めのうちは寄宿学校に入っていたが、その天賦の才が明らかになると一流の家庭教師をつけられ、高等教育と音楽教育を終えた。そして十六才の時にプロデビュー。彗星のごとく現れた彼は、瞬く間にクラシック界の頂点に君臨することになる。音楽という狭い世界で有名になれても、一般社会でその名を知られるようになるのはほんの一握りだが、彼はその、数少ない逸材なのだ。そう、名チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレと並び称されるほどの。
その才能と美貌で否応なくタブロイド紙の餌食にされ、ほどなくして人一倍パパラッチを毛嫌いするようになったのはあまりにも有名だ。大人になるにつれ、女優やスターの卵、モデルたちとのデートを次々と重ねていった――セリーナ・クルスに会うまでは。
セリーナとの関係は、一年ほど前に彼女が亡くなるまで続いたという。そこから後の情報が何もない。地球上から忽然と消えてしまったかのように、誰の目にも触れることなくひっそりと暮らしてきたらしい……。
せっかく集めた情報だったが、今は何の役にも立たない。
もの思いにふけっていた間に、気がつけば雨足は弱まっている。そこへダミアンが大股で近づいてきた。傘で顔が隠れてはいても、ものすごく怒っているのが見てとれる。
「カークさん……」
「ここで何をしている?」
「どうしても取材させていただきたいんです」
「諦めて行ってしまったと思っていたが」
この人は何を言っているのだ。そもそも私がここにいるのは誰のせいかわかっているのだろうか。何度も電話したのに出てくれなかったばかりか、折り返しの連絡すら寄越さなかった。電話インタビューさえ実現していれば、こんな島にまで足を運ぶ必要もなかったのに。
ビクトリアの中に激しい怒りが湧きあがってきた。
「私がどこへ行くと思ってたんですか」
「きみの、泊まっている、ホテルへ」
噛んで含めるような言い方がますます癇に障る。
「お言葉ですけど、この島にホテルはありません。そんなことも知らないんですか」
「だったらさっさとフェリーに乗るんだな。アメリカへ帰れ。きみは招かれざる客だ!」
「カークさん、お願いです……」
濡れた鉄格子に身体を押し付けて訴えかける。「ご協力ください。どうあっても本を書き上げないと。私にとってとても大事なことなんです。それに……、いいですか、公認の伝記なんですよ。あなたには本の内容を細かく吟味する権利があります。どの部分を活字にするのか全て決めていただけるんです。私が始終つきまとってあなたを煩わせることもありません。だって、もうほとんど出来上がってるんですもの。あとは何箇所か補足していただくだけでいいんです!」
必死になって説得を試みるビクトリアだったが、ダミアンは暗い眼差しを向けてくるばかりだ。何を考えているのか全くわからない。
「それがムリだとおっしゃるなら、こちらが無断で仕上げるしかありません。でも、それだと〝公認〟ではなくなってしまいます。言い換えれば、私のほうで多少は脚色させていただいても問題にならないということになりますが」
目が鋭く光ったかと思うと、ダミアンは嘲りを含んだ表情を浮かべた。雑誌に載っていた写真のような爽やかさはどこにもない。
「姑息な真似をするんじゃない。契約書には〝公認伝記のみ可〟と書いてあるんだろう? もちろんそれはマネージャーが僕の許可なく勝手にサインしたものだがな。きみの得意な嘘八百やハッタリは断じて書かせない。そんなことをしたら契約違反と名誉毀損で訴えてやる!」
ビクトリアの堪忍袋の緒が切れかけた。よりにもよって嘘つき呼ばわり! こうなったら次の作戦に切り替えるしかない。
「わかりました。ではこちらもあなた個人に対して訴訟を起こすことにします」
ダミアンは訝しげに目を細めた。
「法的根拠は?」
「契約不履行です」
「誤解があるようだが、僕自身が書類にサインした覚えはない。さっきも言ったように、マネージャーのミランダが勝手にしたことだ。そこまで言うなら彼女の伝記でも書いたらどうだ?」
「それがたとえ事実でも、あなたにだって責任——」
「いい加減にしてくれっ! じゃあこうしよう。僕が彼女をクビにした上で、マネージャーとしての職務怠慢で訴えることにする。それで文句ないだろ」
ビクトリアは下唇を噛んだ。この件でミランダを窮地に立たせるわけにはいかない。彼女とは大学以来の友人で、名のある伝記作家をことごとく退けて私を選んでくれたのだ。ここはやはり、最初の作戦に戻ってもうひと押ししてみるべきだ。
「その必要はありません、〝非〟公認の伝記を編集者に提出することにしますから。信じてください、大衆はあなたにすごく興味を持ってるんです。特にマスコミ各社は、今回何故〝公認〟されなかったのかを勘ぐって、面白おかしく書き立てることでしょうね。私の本もミリオンセラー間違いなしだわ」
「脅迫するのか」
「いいえ、とんでもない」
ビクトリアはあくまで穏やかな笑みを向けた。「事実に基づいた推測を述べたまでです」
ダミアンは碧い瞳に怒りを漂わせ、長いこと黙って彼女を見つめていた。
雨はいつしか止み、空には晴れ間が覗いている。鉄格子からポタポタ落ちる雫を目で追いながら、ビクトリアは彼の次の言葉を待った。
「きみを中へ入れるわけにはいかない。あいにくだが、この屋敷は僕の持ち物じゃないんでね」
そんな見え透いた嘘で私が諦めると高をくくってるんなら、それこそおあいにくさま……。
「結構です。それじゃ、ここでしましょう」
相手は少なからずショックを受けた様子だ。
「どれくらいかかるんだ?」
「えっ」
一瞬何を訊かれたのかわからなかった。
「時間だよ、インタビューにかかる時間」
「一週間ほどでしょうか。そんなにお手間は取らせません」
口の端を吊り上げて『悪魔の微笑み』を浮かべると、ダミアンは意地悪く尋ねる。
「なるほど、そうするときみは、ここにテントでも張るつもりなんだな」
ビクトリアは顎をツンと上げ、彼の目をまっすぐに見つめた。
「必要なら」
「頭がおかしいんじゃないのか」
意地の悪い指摘にも大きく頷いてみせ、「なんとでもどうぞ。あなたも指摘なさったように、どうせ私は不細工なおばさんですしね!」と言い放った。
苛立ちに混じって瞳には何か別の柔らかいものが揺らめき、ダミアンはついに溜息をついた。
「仕方ない、今日のところは入れてやる。だが明日の朝には出て行ってくれ」
明日の朝!? それでは目的が達成できない。
反論しようと口を開きかけたビクトリアだったが、すんでのところでやめておいた。
門の内と外でこれ以上議論を続けても仕方がない。それに、いったん入ってしまえばこっちのものだ。あとは努力次第。作戦は成功したも同然だった。
「どうした?」
「何でもありません」
平静を装い、すまして答えておく。
ダミアンが指をスライドさせセキュリティー装置に何かを打ち込むと、機械的なブザー音がして門が開いた。
転がっていたスーツケースを素早く立て直し、彼の気が変わらないうちにとビクトリアは急いで中へ入る。
「ありがとう、感謝いたします」
それに応えることなく、ダミアンは傘を片手に彼女の脇を擦(す)り抜けた。
「こっちだ、足許に気をつけて。川に落ちるといけない」
自分自身を嘲(あざけ)るように付け加える。「……僕のせいで誰かが死ぬのは二度とごめんだ」
「どういうことですか」
「聞いてないのか」
「あの事故についておっしゃってるのでしたら、詳しい事情はなにも」
それ以上語る気はないらしく、ダミアンは先に立って歩き始めた。
事故とは別に、何か私の知らないことがあるのだろうか。彼にまつわる極めつきのゴシップとか? 僕のせいで、とはどういう意味?