夜が明けきる前に目が覚めた。エリオットのいないベッドは、いつにも増して広く感じる。
もう一度眠りに就くのを諦め、私はザラザラする目をこすりながらバスルームへ向かった。こんなに惨めな気分でも普通に朝の身支度をしようだなんて、考えてみたらなんだか滑稽。
鏡を覗き込むと、生気のない顔が映っていた。眠れない夜を過ごしたあとはいつもこうなる。歯を磨き、顏に冷たい水をかけたところで、ようやく頭が少しすっきりした。
のろのろとローブを引っかけて階下へ下りていくと、そこには誰もいなかった。学校に行く準備をしているのか、ノニーの部屋からはかすかな音が漏れ聞こえている。
エリオットはどこだろう。帰ってきているのだとしたら書斎だけど、もし仕事中だとすれば邪魔をすることになるので、ドアを開ける勇気が出なかった。
父が亡くなって、物事はうまく回らなくなった。失敗や後悔の連続で、他人に誇れるようなことは何もない。嫌な思い出をいちいち触れ回るべきでないと信じてもいた。だいたい、自分にとって不名誉なあれこれを、進んで話したい人などいるのだろうか。
ミスター・グレイソンのことを言わなかったのも、悪いことをしてそれを隠したかったからじゃない。でも、迷惑をかけまい、軽蔑されたくないという気持ちが強すぎて、結果、誤解させてしまった。
デニスに関してはとても個人的な内容だし、エリオットが事実を知れば、彼を『OWM』から追い出すようギャビンに進言するかもしれない。そうなれば、腹を立てたデニスがノニーを巻き込もうとするのは確実。だから口をつぐんでおこう、自分で解決しようと判断しただけだ。でも、これもやっぱり裏目に出てしまった。
昨日ほどは怒っていないことを願いながら、彼に電話しようと携帯を掴む。ロックを解除すると、昨日最後に見た記事が画面に現れた。
〝アナベル・リードの知られざるストリッパーの日々〟
たった一日でクビになったのに、〝日々〟だなんていい加減な憶測。この記事を書いた人には事実なんてどうだっていいんだ。タブロイド各社に売りつけるためには、内容が刺激的であればあるほど効果的なんだから。
ブラウザの更新ボタンを押すと、昨日と違う見出しがトップに躍った。
〝早くも迷走か。ビリオネア、コールガールと密会!〟
見出しの下に、高級そうなホテルに入ろうとするエリオットの写真が載っている。日付は昨日だ。
ホテルに入ったというだけで、すぐ誰かとの密会に結びつけるなんて、タブロイドも本当にいい加減な記事しか書かないのね。そう呆れかけたのもつかの間、ページをスクロールしていくと赤毛の女性の後ろ姿を撮った写真があり、匿名の情報筋と称して、〝二人はすぐに意気投合した〟とあった。
悲しみが胸を貫いた。
あんなに強烈な繋がりを感じた相手は彼だけだったのに。その繋がりが、どこまでも深い喜びを私に与えてくれてたのに。
セシリア島で過ごした一週間は、私たち二人にとって特別な日々だった。愛の言葉こそ口にしてくれなかったけれど、エリオットも私に心を開いてくれていた。せめてあのときに打ち明けていれば、今みたいな結果にはならなかったはず。二人の関係が壊れたのは、百パーセント私のせい。
そう思う一方で、別の見方をしている自分もいた。
たとえ打ち明けたとしても、もっと悲惨な状況を招いていた可能性だってある。軽蔑されて、嫌われて、結局顏も見たくないと思われていたかもしれないのだ。
どっちにしたってこのままじゃいけない。もっとちゃんと、順を追って正直に話せばわかってもらえるのではないだろうか。時間はかかっても、いつかは関係の修復ができると信じたい。
勇気をかき集めてエリオットの番号にかけたけれど、応答はなかった。諦めてキッチンに行こうとしたとき、バルコニーに続くドアから、スコッチの空き瓶を片手にエリオット本人が入ってきた。服を着たまま眠ったのか、黒のドレス・シャツはヨレヨレ、茶色い髪はボサボサ。目の下のクマが寝不足を物語っている。
ハンサムな顔を曇らせているのは、他の誰でもなくこの私。彼に疑われるようなことをした私が悪い。
「電話くれた?」
低い、とても乾いた声だった。
「ええ。もう一度話せないかと思って」
私は手のひらをローブに擦(こす)りつけ、背すじをまっすぐに伸ばした。「その前にコーヒーでも飲まない?」
彼は一度だけ首を縦に振り、同意を示した。
コーヒーが沸くまで、お互いにひと言も言葉を発しなかった。口の中は乾き、手はかすかに震えてしまうけれど、私はそれを必死で隠した。
やがてコーヒーの香りがキッチンに漂い、ポコポコという音が鳴りやんだので、黒い液体をマグカップに注いで彼に手渡した。でも、彼はカップに口をつける代わりに、立ち上る湯気を眺めるだけだった。
「話って?」
感情のこもらない声だからといって、尻込みしてはダメ。自分の蒔いた種は自分で刈り取らないと。その一心で私は口を開く。
「黙っててごめんなさい」
「全部バレて残念だったな」
「そんなふうには思ってない」
「じゃあ、どう思ってるんだ?」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。ここで焦(あせ)って言い方を間違えたら、今度こそ本当に取り返しがつかなくなる。何としてでも誤解だけは解いておかなくては。
「あなたを騙すつもりなんて、これっぽっちもなかったの。正直言って、取り立てて打ち明けるほどのことでもないと思ってた。重要なことだとは思わなかったのよ」
「グレイソンは俺がストリッパーを嫁さんに欲しがっていると言ったんだよな。そしてそいつの指示できみはストリップ・クラブに潜入した。これのどこが〝取り立てて打ち明けるほどのことでもない〟と言えるんだ? しかも俺は、『オープンで信頼できる関係を築きたい』とはっきり言ったはずだ。なのにそれでもきみは打ち明けてくれなかった。誰がどう考えても、騙す、あるいは陥れるつもりだったとしか思えないじゃないか」
言い訳の言葉もなかった。ミスター・グレイソンに操られている自分が不甲斐なく、それで何も言えなかったのだと今さら言ったところで、信じてもらえるとも思えない。
私の返事を待たずに彼は続けた。
「デニスのことだってそうさ。ただ単に昔を懐かしんできみを呼び出したんじゃない。れっきとした理由があったんだよな。あいつは俺がギャビンをけしかけたと思ってる。なのにきみはそれさえも重要なことだとは思わなかったと言って片づけるのか!」
「エリオット……」
「今までひと言も触れようとしなかったくせに、俺に事実を突きつけられて初めてきみはオロオロしている。そんなきみの言葉を信じろと言うのか。冗談じゃない。勘弁してくれよ。俺はこの目と耳で確認したことか、探偵が調べ上げてきたことしか信じるつもりはないね」
「探偵を使うなんてずるいわ」
「は? ずるいのはきみのほうだろ。都合の悪いことは全部伏せて。俺のほうは人生最大の汚点、アナベル・アンダーヒルのことまで話した。家族にさえ話していないのに、だ。きみを信用していたんだよ。だから恥を承知で打ち明けた。こっちは包み隠さず話したのに、そっちはバレるまで話さなかった。今さらボソボソ辻褄合わせのような話をされても、信じられるわけがない」
エリオットはコーヒーを一気に飲み干した。「ただし、ルームメイトのことでは裏が取れた」
「調べたの?」
「もちろん。前後の事実関係も含めてな。それでも納得したわけじゃない。何かトリックがあるはずだと睨んでいる」
そう言うと、彼はコーヒーとアルコールの匂いが嗅げるほど近くに来た。「何が一番気に入らないかわかるか」
私は無言で首を横に振った。
「こんな状況になっても、きみのことがたまらなく欲しいってことだ」
「エリオット……」
「これからシャワーを浴びて仕事する」
彼は逃げるように階段へ向かった。
私と距離を置きたがっている人、私を憎んでいる人、そんな人とどうやって関係を修復できるというの? ムリに決まってる。じゃあ逃げる? 前みたいに。
ううん、それはイヤ。確かにリンカーン・シティからは逃げる以外に方法なんてなかったけど、今は状況が全く違う。エリオットにとって問題なのは、私がしたこと、ううん、しなかったことであって、犯罪者の娘であることとは関係ない。だったらこれからは何でも正直に話して、もう二度と隠し事をしないと誓って、信頼を取り戻すしかない。決して騙したり陥れたりしようとしてるんじゃないということを、言葉と態度で示そう。強い気持ちがあれば、想いはいつか伝わると信じて。
私はベル・リード。彼が昔愛して裏切られたあのアナベルって女性と混同されたくない。