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セカンド・チャンスをくれないか

名画をこの手に, 第6巻

唯一愛した女性、アヴァ・ハース。

事故で大怪我を負った俺を残し、彼女は病院から忽然と姿を消した。

どんなに金を積んでも、身体は元通りにならなかった。左の頬には醜い傷痕が残り、左脚はしょっちゅう言うことを聞いてくれなくなる。プライドもあったし、こんな身体になったという負い目もあって、退院しても彼女を探す気にはなれなかった。

あれから二年。暗闇の中をさまよい続けていた俺の許に、匿名の封筒が届いた。中には写真が数枚。忘れたくても忘れられない人の顔が写っている。そしてご丁寧に居場所を記すメモまで添えられていた。

 

弄ばれていたと知った私は、二年前にルーカスの許を去った。

よくも〝都合のいい女〟に仕立て上げてくれたわね! その怒りと悔しさをバネに努力を重ね、ようやくここまで立ち直れたというのに、またしても彼が目の前に現れた。

やめて。私に付きまとわないで。一度目の失恋は乗り越えられても、二度目はムリ。

今回は翻弄されるわけにいかないの。

第一章試し読み

【ある少年】

三歳ぐらいの男の子が一人、中庭で遊んでいた。明るい茶色の目を持ち、濃い栗色の髪はさらさらしていて、子供ながらとてもハンサムだ。黒いTシャツも青のデニム・パンツもきちんとアイロンがけされているが、さっき双子の兄と喧嘩したときについた泥汚れが残っている。

通りがかった母親を見つけ、男の子は駆け寄っていった。

「マー!」

キャンディでべとべとした手で母親の柔らかな手を握ると、母親は途端に嫌そうな顔をした。

「その手を離してちょうだい」

引き離そうとしても、子供は必死でしがみつく。「それと、わたくしのことは〝ママ〟とお呼びなさい。〝マー〟ではありませんよ」

やっと手が離れると、彼女はハンカチを取り出し、嫌悪感も露わに自分の服や手のひらを拭った。

呼び方を訂正されようが嫌がられようがお構いなく、男の子は母親の美しい顔を見上げた。

「マー、きれい。だーい好き!」

「そういうのは強要だっていつも言ってるでしょう?」

「ちょーようってなんだったっけ?」

強要、と母親はまた訂正した。「誰かに〝好き〟って言うときは、相手からも同じ言葉を要求してることになる。それが〝強要〟。そうやって人にプレッシャーを与えようとするのは、とてもいけないことなのよ」

男の子の顔から笑みが消えた。彼はただ、母親をどんなに愛しているか伝えたかっただけなのに。

「あなたは欲しがりすぎだわ」

母親は構わず続けた。「欲しがる子供は最悪。それと、どうしてそんなに手が汚れてるのかしら。わたくしの手までべとべとよ」

ハンカチをもう一度手のひらにこすりつける母親を見て、男の子は俯いた。

「ごめんなさい」

しかし、すでに屋敷に戻りかけていた母親に、その言葉は届かなかった。

一人残された男の子は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

元カノのことを思い出して切なさに浸る習慣もないし、家まで押しかけていってストーカー行為を働く趣味もない。だったらなぜ、しょっちゅうここに舞い戻ってしまうのだろう。

シャーロッツビルに家族や友人は誰も住んでいない。知り合いすらいない。もはや仕事での用事もなくなったのに、買った家を手放さないどころか家政婦までいる。早いとこ売っ払ってシアトルに落ち着けばいいのに、なぜかそれもできずに二年が過ぎた。

飛行機が滑走路で減速し始めると、窓ガラスを滴り落ちる雨粒が大きくなった。

バージニアは今日も雨か。

キャビン・アテンダントが差し出してくれた傘を受け取り、俺は飛行機を降りて車に向かった。秘書のレイチェルが回しておいてくれたメルセデスに乗り込み、シートベルトを締める。

左脚が痛い。雨だと余計にズキズキするのだが、家で熱い風呂に入る代わりに、俺はとある一軒家へ向かった。

通りの向かいに車を止めて目指す家を見上げると、そのこぢんまりした家の外壁はペンキがところどころ剥がれ落ち、前庭は荒れ放題。まるでこの社会からうち捨てられているかのようだ。今も誰かが住んでいるらしいが、少なくとも彼女はここにいない。なのにこうして立ち寄ってみずにいられない俺は、往生際が悪いただの馬鹿なのか?

おまえがどん底を這いずり回っていたとき、彼女はおまえを見捨てた。あんな女のことは早く忘れろ。そして前に進むんだ。若いし金も有り余ってるんだから、顔に少々傷があっても女は寄ってくる。その中でとびきりセクシーな女を選んで、思う存分遊んでやれ。れっきとした男だと証明してみろ。

古ぼけた青いドアは固く閉ざされている。

初めてあのドアを見たのは、彼女を迎えに来たときだった。ドアから出てきた彼女は擦り切れたジーンズを穿き、化粧っけもほとんどなかった。雨が降っていて、俺は彼女が濡れないように傘を差し出し、車までエスコートしたのを今でも覚えている。

おまえ、やっぱりアホだ。いくら待ってもアヴァは出てこない。二年前に行方をくらませたじゃないか。

ふと見ると、金髪の綺麗な女が向こうの歩道を歩いている。〝バージニア大学医学部〟と印字されたTシャツを着ているということは、よほど優秀な頭脳をした医大生なのだろう。Tシャツを押し上げている大きなオッパイ、ミニスカートからすらりと伸びる脚。本来ならそそられて当然の光景なのに、事故からこっち、スイッチが切られたみたいに性欲が湧かなくなった。人生で最大ともいえる悦びを堪能できないのは、大怪我を負った事実よりずっとキツい。殊に雨の日は最悪だ。左脚の痛みも手伝って、ますます惨めになってくる。もしも俺が迷信深い人間なら、立ち去り際にアヴァから呪いでもかけられたかと本気で疑うところだ。

ミニスカートの女が立ち止まってあの青いドアをノックし、中から出てきた若い男と熱く抱擁し始めた。その光景を見て、どういうわけか胃が捻じれそうになる。

おまえ、ここで何をしようとしてるんだ?

我に返った俺は、車を出して自宅へ向かった。

アヴァとのことはとっくの昔に終わってるんだぞ。天才と呼ばれたこの俺が、たったそれだけのことを理解するのにどんだけ時間かけてんだよ。いやいや、数字やそれをパターン化したものの扱いはチョロくても、女に関しては、特にアヴァに関して答えを導き出すのは容易じゃない。

かといって、悠長なことも言っていられない。父が連帯責任を課したために、一人でも目的が達成できなかったらじいちゃんの絵を誰も手にできなくなる。現に、スーパー・スターのライダーは自分のマネージャーを妻に迎えたし、双子の兄のエリオットは予言通りストリッパーとゴールインした。リミットまであと四か月もない。それまでに誰かを見つけて結婚しないと、兄姉たちに迷惑がかかってしまう。

本音を言えば結婚なんかしたくはないし、みんなにもそう言った。だが、兄や姉、特にエリザベスを悲しませたくない。俺のせいで絵がもらえないとなったら、受けるショックは計り知れないだろう。

俺たち一人ひとりの肖像画なんだから、それらの所有権は当然自分たちにあると誰もが軽く考えていた。ところがどういう経緯か、絵のほとんどが父の手に渡り、どんなに頼んでも渡してくれなかった。それどころか肖像画を俺たちとの取引材料にして、「絵が欲しけりゃ半年以内に結婚しろ」と抜かしやがった。しかも、その相手と一年間一緒に生活しろと。

こんな理不尽な話があるか。ああ、じいちゃんがもっとまともな弁護士に遺言書を託すか、俺たちがもっと賢く立ち回っていればこんなことにはならなかったのに。

父はいわゆる〝ソシオパス〟ではないか、と俺は睨んでいる。人に無理難題を押しつけて、もがき苦しむ相手を見るのが好きな人間というのは、パーソナリティ障害と言っても過言じゃない。

最初の妻との間にできた三人の子供たち、つまり俺の兄や姉だが、彼らはみんなプライスの恩恵に与って、または自力でのし上がって、父に頼らなくても裕福な暮らしを営むことができている。一方俺たち双子も、弱冠二十一にして大金持ちになった。要するに、今は誰も父の金を当てにしていないのだ。その辺のところも、あいつにとっては気に食わないのだろう。なんといっても子供たちを支配するという楽しみを奪われてしまったのだから。

俺の住むゲート・コミュニティが近づいてきた。住民以外の侵入者を制限するために守衛所が設けてあるのだが、その前に来ると、ガードマンが退屈そうな顔で頷いてゲートを開けてくれた。

コミュニティ内の敷地には芝生が青々と生い茂り、プラタナスなど、ところどころに大きく枝葉を伸ばした木々が植わっている。葉のほとんどはまだ鮮やかなヒスイの色をしているが、オレンジや黄色に色づき始めているものもあり、秋の訪れを感じさせる。石やレンガ造りの家々が立ち並ぶ向こうには、住民専用のゴルフ場。なんとも贅沢な住宅街だ。

当時アヴァはバージニア大学の学生で、俺はシアトルに住んでいた。会うのに往復十時間かけるくらいなら、その分一緒に過ごしたい、そう思っていたところに手頃な家が見つかり、俺は迷わず買った。

ここシャーロッツビルの家が平屋だったのはラッキーだった。退院したとはいえ傷がすっかり癒えていたわけではなかったから、階段の上り下りがあっては何かと不便だったろう。特に最初の数週間は車椅子の生活を余儀なくされていたので、二階建て以上の家を購入しなくて本当によかったと思う。

俺はガレージへ車を入れた。四台分のスペースの一番奥にはシルバーのレクサスが停めてあるが、俺自身はあの車を運転したことがない。ただし、いつでも問題なく乗れるように、整備だけは怠らないようにしている。

そんなことをしても彼女は帰ってこない。いつまでも女々しいぞ。

心の声を無視して、家に足を踏み入れる。

「お帰りなさい、ルーカス」

ゲイルが優しく声をかけてきた。「温かい飲み物でもご用意しましょうか?」

俺が首を横に振ると、世話好きな彼女は少し残念そうな顔をした。

六十を少し過ぎたゲイルは、住み込みで働いてくれる家政婦だ。メイド服のようなお仕着せの服でなく好きな服装をしてくれと言ってあるので、今日は薄いブルーのセーターにジーンズ、それに白いスニーカーという動きやすそうな恰好をしている。

彼女はキッチン・カウンターに行って封筒を持って戻ってくると、それを俺に差し出した。

「こちらが届いておりました」

レイチェルがいてくれたらなあ、と思うのはこんなときだ。彼女なら自分で中身を確認して、不要だと判断すれば俺に見せることなくゴミ箱に放り投げてくれる。だがあいにく、俺のアシスタントは今バハマで一週間の休暇中だ。

「どうせDMかなんかだろう。捨ててくれて構わないよ」

俺は封筒をちらりとも見ずに言った。法的書類はすべて弁護士のところに届くことになっているし、重要な案件はメールで連絡があるはずだ。また、月々の支払いは例外なく自動引き落としにしているし、単発の請求書はレイチェルのところに転送されることになっている。

「わたくしも最初はそうしようと思ったのですが、どうもDMの類いではなさそうな気がします。ご自分の目で確かめてみてもらえませんか」

ゲイルに封筒を押しつけられ、俺は仕方なくそれを受け取った。

封筒はレターサイズの半分ほどの大きさで、防水が施してある。宛名が〝ルーカス・リード〟とあるだけで、差出人の名前も消印もない。ふうむ、確かにDMじゃなさそうだ。

ありがとう、とだけ言い、足をひきずらないようにして書斎へ向かう。俺の左脚は右に比べて少し短い。外科医が最善を尽くしてくれたものの、元通りにはならなかった。普段はなんとか誤魔化せるのだが、今日みたいに筋肉がズキズキする日は、不揃いな足運びを隠すのになかなか骨が折れる。

書斎のドアを閉め、アーム・チェアにドサッと腰を下ろす。暖炉の上のマントルピースには何枚かの写真。どれもヨーロッパの寄宿学校に通っていた頃のもので、一緒に写っているのは兄姉たちだ。ヨーロッパで教育を受けたといえば聞こえはいいが、要は両親によって体よく追い払われたに過ぎない。

アヴァとも一枚ぐらいは一緒に撮っておけばよかった。

ふん、そんなものがあったとして、どうする気だ? 燃やすのか? 燃やせば彼女の記憶を消し去れるとでも思ってるのか?

封筒の角の小さな赤い突起部分を引っ張ると側面が裂け、写真が数枚膝の上に滑り落ちた。

写っているのは若い女性だ。川に架かった石橋をこっちに向かって歩いてくるところで、プラチナ・ブロンドの長い髪が風になびいている。瞳の色は青く冷たいが、それを温かな表情が打ち消しているかのようだ。

心臓がドキドキと大きな音を立て始め、指先の感覚がなくなってきた。

アヴァ。あの頃とちっとも変わらない。相変わらず痩せぎすで、ベルトのせいか細いウェストが強調されている。

写真の裏には何の記載もなく、他のも同様だった。

どういうことだろう。どれも隠し撮りのようだから、誰かが彼女を見張っているとしか考えられない。まさか、ストーカーの仕業か?

鋭い緊張に身体が強張った。

姉のエリザベスも数年前にストーカーに悩まされ、散々な目に遭ったことがある。もしかして、アヴァも苦しめられているのだろうか。

いや、待て。だとしたら、なぜその〝ストーカー〟がアヴァの写真を俺のところに送りつけてきた? 辻褄が合わないじゃないか。

何か手がかりはないかと封筒を覗き込んでみると、中に紙きれが一枚入っていた。

〈ル・メリディアン・チェンマイ〉

その下に、二日後の深夜に出発する国際便の詳細が書かれている。チェンマイ発ソウル経由大阪行きの大韓航空、そのフライト・スケジュールが。

ということは、すぐにここを出てチェンマイに発てば、彼女がその便に乗る前に捕まえられるということか?

俺は再び写真を手に取った。

さっきは気づかなかったが、よく見ると、周りの看板や案内板はすべて日本語だ。前に半年ほど東京に留学したことがあって、ひらがなとカタカナは今でも少し覚えている。

じゃあ、なぜチェンマイなんだ? ふん、そんなの知ったことか。

俺は写真を床に落とし、アーム・チェアの背もたれに頭をもたせかけた。

だいたい、彼女とはもう無関係だし、俺には元カノを追っかける趣味もないんじゃないのか? いつまでも未練たらしく思いを引きずるなど、男としてどうなんだ?

とはいえ、別れ方が一方的だっただけに、自分の中で完結していないのも確かだ。この中途半端な気持ちはどこかで断ち切らなくてはならない。そうする権利くらい与えられてもいいのではないだろうか。

俺はポケットから携帯を取り出して、パイロットに電話をかけた。

『ルーカス様』

「チェンマイに行く。至急準備してくれ」

俺は取るものも取りあえずガレージへ向かった。

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