名画をこの手に, 第4巻
エリオット・リードから一年間の結婚生活を提案され、私はそれを受け入れた。仕事もなく、養うべき妹のある身で、選択肢は限られていたのだ。
傲慢すぎる彼に最初はうんざりしていたものの、雰囲気が少しずつ変化していく。そしてあるとき、今一度関係性を見直そうと言われ、私もそれに同意した。たとえ偽装でも、たとえ一年でも、平和に、心豊かに過ごしたいと思ったからだ。
でも、過去から背負ってきた荷物は、ときとして邪魔になる。万事オープンであることを望む彼に対し、私はどちらかといえば秘密主義。何もかも曝け出したあとで背を向けられてしまうのが、単に恐いだけなのかもしれない。
私たちの過去がいつしか交差し、彼の敵は私の敵に、そして私の敵も彼の敵になった。
恐れとお互いへの不信感を克服しない限り、新たな一歩は踏み出せない……。
欲しいものが何でも手に入れられるなら、他人になりすましたい。顔も身体も記憶も何もかもそっくり誰かと取り替え、新しい人生を生きてみたい。そうすればこの苦しみから逃れられる。
ビバリーヒルズの大邸宅で目覚めたとき、俺はそんな妄想にふと囚(とら)われた。
熱いシャワーを浴びても、ストレッチをしても、暗い気分が和らぐどころか、逆に息苦しくなってくる。
特大級の爆弾が落とされたからといって、逃げ出すべきじゃなかった。俺たち二人の最初のイベントがあんなことになって、相当落ち込んだだろう彼女の傍(そば)にいてやるべきだった。せめて昨夜のうちに家に帰ってやるべきだったのだ。
代わりに俺のしたことといったら、浴びるほど酒を飲んで酔い潰れて、ライダーに迷惑をかけただけだ。
くそ、だから秘密を持たれるのは嫌いなんだ。心の準備もなく衝撃的な事実を聞かされると、決まって判断力が鈍ってしまう。
キッチンでは、エリザベスがカウンターに座ってピンクのマグカップを手にしていた。クリーム色のワンピースが、美しい金髪によく似合っている。
「あらエリオット、おはよう」
俺はマグカップにコーヒーを注いでから、彼女の隣に腰かけた。
「おはよう」
「大丈夫なの?」
「ああ、この通りピンピンしてる」
「そういう意味じゃないことぐらいわかるでしょ?」
エリザベスは眉間にしわを寄せて難しい顔をした。「相当飲んだみたいじゃない」
「まあね。でも二日酔いってほどでもない。コーヒーとアスピリンがあればすぐに治るさ」
アスピリンがふた粒、魔法のように目の前に置かれた。
「ありがとう」
俺はそう言って、薬をコーヒーで流し込んだ。
「ジジのほうはどうなの?」
「誰?」
頭が混乱して、誰のことか本当にわからない。
「奥さんよ、あなたの」
「ああ」
そうだった。最初にそう紹介したのは俺だった。
大丈夫だよ、という言葉が口から勝手に飛び出ていた。
「ノニーは?」
「たぶんまだ寝てるんじゃないかな」
「酔い覚ましには寝るのが一番よね」
コーヒーとアスピリンのお陰で、頭の中が徐々にシャキッとしてきたのは有り難い。
「俺、やっちまった」
「〝やっちまった〟のはティファニーでしょ」
「あの女……」
〝ナンバー6〟にもっと常識があれば、晩餐会も滞りなく終えられたはずで、俺たちが醜い言い争いをすることも当然なかっただろう。しかし、たとえ昨日じゃなくても、いつかはあんなふうになっていたような気もする。
「あなたたちの間に何があったか知らないけど、ジジはきっと心細い思いをしてると思うの。今は一緒にいてあげるべきじゃないかしら」
彼女はそんなこと望んじゃいない。それだけじゃなく、自分の過去を俺に話したことすら今頃は後悔しているだろう。
「南国から帰還した恋人たちは?」
俺はいたたまれなくなって話題を変えた。
「時差ボケだって言ってたから、二人ともまだ寝てるんじゃない?」
幸せそうな二人に当てつけられずに済んでホッとする反面、そんなみみっちい自分が嫌で嫌でたまらない。
「もう行くよ」
俺はそう言って立ち上がった。
「そうね。それがいいわ。奥さんが心配なんでしょう? よろしく言っといてね」
マセラティに乗り込みながら、俺は考えていた。
兄さんは本物の愛を見つけたし、ペイジはその相手にぴったりの人だ。祝福すべきことなのに、どうして心から喜んでやれない? 自分の状況と比べて羨ましいのか? 自分の選択を苦々しく思っているのか?
いや、苦々しいという表現は当たっていない。ジジの言葉が頭の中で消化できなくて、これからどうすればいいのかわからなくて、ライダーたちをやっかんでるんだ。最低だな。
——あなただって同じよ。……ペニスを突っ込む〝穴〟ぐらいにしか思ってない……。
彼女があんなふうに考えていたとは想像もしていなかった。
父に恥をかかせたい一心で、結婚相手にストリッパーを選ぶと決めた。たまげた顔が拝めると思うと、それだけでワクワクした。ホットな子を見つけて一年間のセックス三昧。そのあと後腐れなく別れれば、俺は自分の義務を果たしたことになる。何もかもシンプルな計画だった。
なのに、気がつけば頭の中には様々な思いがひしめいている。まず、名前のことで勘違いさせたままなのは嫌だ。十五歳でレイプされたという話もほっとけない。そのときの苦しみから未だに抜け出せずにいるのもなんとかしてやりたい。もしも彼女が望むなら、そいつを見つけ出して、こてんぱんにしてやる。二度と女性に手出しできないように、ペニスを引っこ抜いてやってもいい。
マンションの地下駐車場に着いても、俺はしばらく車を降りなかった。
もしかして、一番いいのはこのまま別れてやることかもしれない。彼女は元々結婚なんかしたくなかった。すべては金のためだと言った。その金はもはや俺の手を離れ、ピートに任せてある。彼女が使いたいときに引き出せるようにしてやりさえすれば、あれを元手に何でも好きなことができる。そうしてやるべきだろうか。
いや、俺一人のことならそれも有りかもしれないが、肖像画のことがある。もしもいま離婚して、半年以内に他の結婚相手が見つけられなかったら、じいちゃんの絵を誰も手にすることができなくなる。兄弟みんなに迷惑がかかることになる。だとすると、今はまだ離婚できない。
本当に理由はそれだけか? 新しい結婚相手くらい、本気で探そうと思えば見つかるんじゃないのか? 離婚したく(・・・)ない(・・)理由が別にあるんだろ?
俺は目の前のコンクリートの壁を睨みつけた。
別の理由とは何だ? んなもんあるか。絵のことさえなかったら、俺はとっくに……。
違うだろ。正直になれ。いつの間にか彼女の虜(とりこ)になっちまってるじゃないか。
——女との関係なんて単純なもんさ、相手のことがどうでもいいならな。
そう、問題はそこだ。彼女のことがどう(・・)でも(・・)よく(・・)は(・)なく(・・)なったから、物事が複雑になってしまった。
最初はあの、謎めいたエメラルドの瞳に魅せられただけだった。でも今はそれだけじゃない。ストリッパーに身をやつしながらも前を向き、妹の面倒もよく見ている。ノニーのためならどんな犠牲も払うつもりだったからこそ、俺との結婚に同意したといってもいいくらいだ。おまけにあんな過去を背負っていても、ふて腐れることなく健気(けなげ)に生きてきた。将来のために大学に戻って勉強しようという意気込みもある。どれもこれも、芯が一本、まっすぐ通った女性だからに他ならない。
そんな彼女を放っておけない。もっと正確に言えば、俺(・)が(・)彼女の傍にいたいんだ。でも、それが独りよがりだということもわかっている。
ああ、いったいどうすりゃいいんだ。アルゴリズムを相手にするほうがまだ簡単だ。物事には必ずどこかに原理的な答えがあって、それを見つけ出しさえすればいいんだから。だが、彼女は生身の人間だ。ましてやただの〝穴〟なんかじゃない。絶対に。
結論が出ないまま、俺は車を降りてエレベーターに向かった。
まだ寝ているだろうか。それとも、ノニーと一緒に買い物にでも出かけただろうか。それなら頭の中をじっくりと整理することができるから、却って都合がいいんだが。
彼女に本音をぶつけるのはどうだ?
「きみは今やなくてはならない人だ。きみの喜ぶ顔を見るのが自分のことのように嬉しいし、悲しんでいれば慰めてやりたくなる」
そんなふうにちゃんと説明して、レイプ野郎とは一緒にしないでほしいと訴えるんだ。もちろん彼女の気持ち次第だが、もしも理解してもらえるなら、離婚について頭を悩ませる必要はなくなる。そのためには、話をどんなふうに持っていけばいいだろう。
柔らかなチャイムの音がして、最上階のドアが開いた。だが一歩踏み出したとき、俺の足は硬直した。二度と会いたくないと思っていた女が目の前にいたからだ。
アナベル・グラハム・リード=アンダーヒル、デカい胸も張り出した腰も、細いウェストもぼってりした唇も、五年前とちっとも変わらない。この女性は神の造りし傑作品だとあの頃は思ったものだが、そうじゃなかった。チョコレート色の瞳以外、すべてが整形手術の賜物なのだと今では知っている。
「ここで何をしている」
アナベルは俺の肩にしなだれかかって、甘えたような声を出した。
「びっくりした? 忙しいみたいだからわざわざ来てあげたのよ」
アナベル、と呼びかけた瞬間、内側からドアが開いて、もう一人の〝アナベル〟が姿を現した。ブルーの部屋着に素足で、赤い髪は湿ったまま、だらんと肩口に垂れている。
彼女はショックを受けたように固まった。そりゃそうだろう。見ず知らずの女が自分の家の玄関先に立っているばかりか、その女を「アナベル」と俺が呼ぶ声を聞いたのだから。彼女には一度も呼びかけたことのない名前を。
化粧っ気が全くないにもかかわらず、俺は彼女に惹きつけられた。ストリップ・クラブで初めて出会ったときに感じたのと同じ磁力だ。いや、今は内面に秘めた強さもその理由も知っているだけに、あのときよりも強烈かもしれない。近くにいるだけで、皮膚がヒリヒリしてくる。
そんな彼女にチラリと目をやったアナベル・アンダーヒルが、勝ち誇ったように俺にしがみついてきた。
「どうしたの? 入りましょうよ」
こんな場面を見せられて、さぞかし不愉快な思いをしているに違いない。目を離せば何か大事なものが指の間をすり抜けていきそうで、俺はもう一人のアナベルから視線を逸らすことができなかった。しがみついてくるほうのアナベルには、もはや嫌悪感しか感じない。
「どっか行けよ」
これから大事な話し合いがあるというのに、部外者は邪魔なだけだ。
「そちらはどなた?」
目の前のアナベルが咎めるように尋ねた。
「あたしの名前はアナベル。あなたは?」
彼女の顔に、案の定驚きの表情が広がった。
「アナベル……、です」
「あら、おんなじ名前なのね。ところでこれからエリオットと大事なお話があるの。席を外してくださる?」
きみと大事な話なんかない、と言おうとしたら、その前に妻は俺を冷たく見据え、ドアをピシャリと閉めてしまった。
くそ、なんというタイミングの悪さだ。
すぐに誤解を解きたくて追いかけようとした俺の腕を、アナベル・アンダーヒルは離さなかった。そして、ドアと俺の間に自分の身体を挟むと、挑戦的な目を向けてきた。
「なんだよ。きみの相手をしてるヒマなんかない」
「言ったでしょ、大事な話があるって。聞いてくれるまでここを動かないわよ。メールも電話も悉(ことごと)く無視したあなたが悪いんですからね」
「そこをどいてくれ。不法侵入で訴えられたいのか」
「あら、ここはドアの外よ」
「……」
「結婚披露宴でのこと、忘れたとは言わせない。クローゼットに引っ張り込まれたあたしは、あなたの言いなりになって何でもしてあげたでしょう? そしてあなたはあれが気に入った」
彼女は唇の端をニヤリと吊り上げ、そこへ舌を這わせた。
官能的な身体と官能的な仕草を見れば、男なら誰でもムラムラしてくるだろうし、俺もかつてはその一人だった。だが、今は虫唾(むしず)が走るだけだ。
「黙れ!」
汚らわしい記憶が一気に押し寄せてきて、過去の自分を蹴り上げてやりたくなる。一時的にせよ、こんな女を本気で愛していると思い込んでたなんて、どこまで俺はおめでたいんだ。
「ねえ、お願い」
埒(らち)が明かないと思ったのか、彼女は戦術を変えてきた。猫なで声が、いやに鼻につく。「マーリンの言ってたことを思い出して」
マーリンというのは彼女の伯父の名前で、俺たち双子が膨大なデータを駆使してアルゴリズムを構築したとき、技術面でも経済面でもサポートしてくれた人だ。また、当時二十歳の若造だった俺たちだけなら、売却時にあそこまでの利益を確保することは難しかっただろう。せいぜい十分の一程度の額で満足していたに違いない。マーリン・グラハムの存在があったからこそ、大成功を収めることができたし大金を手に入れることもできた。
そして、その大切な恩人を俺たちに紹介してくれたのが、目の前にいるアナベルだった。こいつを追い返したいのはやまやまだが、マーリンとの橋渡しをしてもらえなかったら、今の俺たちがいなかったのも事実だ。
「よし、五分だけやる」
「ここじゃ話せないわ」
彼女は長い睫毛越しにこっちを見上げた。「朝のコーヒーもまだだし、おうちに入れてよ」
「この家にきみを招待するつもりはない」
「あの娼婦にはさっさと出ていってもらえばいいんじゃない?」
「娼婦なんかじゃない! 彼女は俺の妻だ」
俺は両手を力一杯握った。そうでもしないと、この女を絞め殺しかねなかった。
「あら! そんな噂も聞いたけど、まさか本当だったとはねえ」
さも驚いたフリをしているが、こいつはそんなタマじゃない。「それならスタバでもいいのよ?」
その要求を無視して、俺は腕時計に目をやった。
「あと四分四十二秒しかないぞ」
「ま、待って」
と、彼女は慌てたように言った。「わかったわよ。ここで言うわよ。実は、離婚したいの」
俺はふん、と鼻を鳴らした。「勝手にすればいいだろ。俺には関係ないね」
「向こうが応じてくれないのよ」
「だったら弁護士を雇えよ。シカゴにだって有名な弁護士はいるだろう?」
「誰も取り合ってくれない。みんな主人(あいつ)の言いなりなの」
「それは残念だな。だが今も言ったように、俺には何の関係もない」
「関係ならあるわ」
「はあ?」
「マーリン伯父さんに約束したでしょ? 何かあったらあたしの相談に乗ってくれるって」
そうだった。三年前、確かにそう約束した。癌で死にかけている人に向かって、俺はどうしても〝ノー〟と言えなかった。
「わかった。一度だけだぞ。その一回の権利をいま行使したいんだな?」
「ええ、そう」
彼女は右手の袖をまくって見せた。「これ見て」
そこには黒ずんだ痣(あざ)がいくつもあって、美しかった肌が見る影もないほど変わり果てていた。
「いったい何があった? 誰にやられた?」
「スタントン」
彼女は袖を元通りに直し、痣を隠した。「いつもはもっとたくさんあるの。でも、誰にも気づかれないところを狙ってつけてくる。あいつ、ずる賢いのよ」
「警察に言えよ。どっかの相談窓口でもいい。夫のDVが立証されれば即離婚できるだろう? 場合によっちゃ、接近禁止命令も出してもらえる」
彼女は激しくかぶりを振った。
「ムリ! 警察だって行政だって、みんなあいつの言いなりなんだから。シカゴではものすごく影響力を持ってるの」
「まともな警官も一人や二人はいるだろう? そいつらに訴え出て、旦那を逮捕してもらえばいい」
「そのあとは?」
「え」
「そのあとどうなるか想像できる?」
「……」
「弁護士がつくことになるわよね。でも、あたしの味方をしてくれる人なんて誰もいないんだってば!」
俺は言い返すことができなかった。そんなに影響力のある人間なら、難なく無実を勝ち取ってしまうかもしれない。
「じゃあ俺にどうしろってんだよ。シカゴに弁護士の知り合いなんていないぞ?」
「そんなことを頼みたいんじゃない。ジャスティン・スターリングよ」
「ジャスティン?」
「そう。親戚でしょ? 彼を紹介して。あたしを助けられるとしたら、彼しかいないの」
「勘弁してくれよ」
俺は髪の毛を掻き上げた。「誰から聞いたか知らないが、俺とあの人は親戚なんかじゃない」
「あなたの従姉の旦那さまでしょう?」
「バネッサはライダーたちの従姉であって、俺の従姉じゃない」
「でもライダーとは仲良しなんでしょう? だったら大した違いはないわよ。ライダー経由で紹介してもらえばいいんだから」
「あのなあ、忘れてるみたいだから思い出させてやるが、バネッサはプライスの人間だぞ。当然うちの母親を快くは思っていない。その息子である俺の頼みなんか、聞いてくれるわけがないだろう?」
少なくとも、父の最初の妻ジェラルディン・プライスは、俺の母親を間違いなく憎んでいる。「どっかのパーティに潜り込んで、ジャスティンに直談判したほうがよっぽど早い」
「それができないのよ。彼、今は拠点をLAに移してしまったみたいで、ほとんどシカゴにいないんだから」
それは驚くには当たらない。確か子供が生まれたばかりで、その子を連れて寒すぎるシカゴに戻ることも、家族と離れ離れになることも望んではいないだろう。かといって……、
「俺にできることは何もない」
「本気なの? もしかして、あたしのことまだ怒ってる?」
「何の話だ?」
「あなたのお父さんのこと」
「……」
「あなたを捨ててジュリアンに走ったことを、今も根に持ってるんでしょう?」
彼女は勝ち誇ったように腕組みした。「それって、まだあたしに気があるってことよね?」
五年前の屈辱がまたしても蘇ってきた。だが、あれはもう済んだことで、俺は挫折を克服した。今さらこの女を図に乗らせてなるものか。
「勘違いされちゃ困る。俺は今じゃきみに感謝すらしてるんだ」
「感謝?」
「ああ。もしも若気の至りであのまま結婚してたらどうなってたと思う? おそらく婚前契約書も交わさなかっただろう。そうなると、離婚のとき丸裸にされただろうよ」
アナベルは目の縁を怒りの色に染めた。もちろん、父との離婚劇を思い出してのことだろう。
父はいけすかない人間だが、馬鹿じゃない。二度の結婚に失敗して多額の財産を持っていかれてからは、充分すぎるほど慎重になった。再婚する相手との間に鉄壁の婚前契約書を用意し、もしもの離婚に備えたのだ。
アナベルは父の四番目の妻だったが、一年も経たないうちに飽きられた。いざ離婚となったとき彼女が手にできたのは、クローゼットの中の洋服だけだった。買ってもらった宝石さえ、すべて没収されたという。当然反論はしたようだが、後の祭りだったというわけだ。
「さあ、もう五分経った。さよなら、アナベル。もう二度と会うこともないだろう」
ペントハウスに入ろうとした俺に、彼女は突っかかってきた。
「頼みを聞いてくれるまで、ここを動かないって言ったでしょ。あたしは本気よ。だって、他に頼れる人なんていないんだもの」
力づくで押しのけるのは簡単だが、あんな痣を見せられたあとでは、どんな乱暴も働く気にはなれない。女に暴力を振るうなんて、最低だとすら思っている。たとえそれがどうしようもない女でも。
「そうか。どうしてもどいてくれないなら、こっちが退散するまでさ」
警察に通報するのは論外だ。男の警官が来た日には、あのつんと突き出た胸と尻にみんなやられて、彼女を引きずり出すことなんかできるはずがない。
俺は回れ右をして、開いたままになっていたエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まるとき、地団太踏む彼女がチラリと見えて、少しだけ溜飲(りゅういん)が下がったような気がした。