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アサシンの名にかけて

単行本, 第7巻

〈アンジェリカ〉

八年もの間ずっと、社会病質者につきまとわれてきた。殺されるのは時間の問題、と絶望しかけていたところへ、トーリアンという、ミステリアスで強靭な体つきをした男が目の前に現れた。彼なら、この悲惨な状況から私を救い出してくれるだろうか。偶然目撃した或ることで脅せば、味方になってくれるだろうか。

思い余って助けを求めた瞬間から、私の人生は劇的に変わっていった。

 

 

〈トーリアン〉

十年ほど前、ある男が殺人を犯した。殺されたのは、俺が昔付き合っていた女だ。俺たちの間には息子が一人いて、その子が十歳の誕生日にこう言った。「神様、お願い、ママを死なせた奴をやっつけて」と。

俺は犯人を突き止め、以来そいつに償わせるチャンスを窺ってきた。その過程で存在を知ったのが、アンジェリカ・ウィルクスという若い女だ。

これは使える。状況を鑑みれば、喜んで囮になってくれるだろう。あのつぶらな瞳に惑わされさえしなければ、すべて上手くいくはずだ。

第一章試し読み

〝人生からレモンをもらったら、レモネードを作れ〟。

昔からよく言われている言葉で、〝ピンチをチャンスに変えろ〟とか、〝どんなに辛いことがあっても挫けずベストを尽くせ〟という意味。その考えは確かに素晴らしく、前向きでもあるけれど、もし、与えられたのが腐ったレモンだったらどうだろう。ことわざを最初に思いついた人は、そこまで考えて世に出したのだろうか。たぶんそうじゃないと思う。

レモンなんてどうでもいいから休みたい、と心が叫ぶ。肺と筋肉は悲鳴を上げ、二本の脚も、「舗装されていない道にこのジョギング・シューズは痛すぎる、もっといい靴履かせろ」と言っているみたいだ。

歯を食いしばり、走る速度をさらに上げると、朝の冷たい空気にもかかわらず、額や髪の生え際から汗が滴り落ちてきた。

以前、野生動物のドキュメンタリー番組でナレーターが言っていたのは、「群れの中で一番速く走る必要はない。〝ビリ〟でさえなければ、捕食者に目をつけられることもないのだ」という尤もらしいセリフ。

だったら群れを持たない動物は? 私のように単独でしか行動しない獲物はどうすれば生き延びられるというの?

その疑問を抱えながらこの八年、立ち止まることなくずっと走り続けてきた。腐ったレモンを次から次へと投げつけられ、身体中が痣だらけになってもただひたすら耐え忍んで。せめてレモンが腐っていなければレモネードが作れたかもしれないのに、宇宙はそれさえ拒んだ。

ストレスが限界に達し、数日前、ここLAに救いを求めて逃げてきた。天使の街(ロサンゼルスの愛称)と呼ばれているなら、高潔で霊的な存在が、もう走り続けなくていい、休んでもいいんだよ、と言ってくれそうな気がしたから。でも未だにそんな声はかからず、立ち止まれないでいる。走る速度を緩めることもできず、新しい環境に馴染もうともがいている。

 

 

シンシナティは住みやすく、とても美しい町だった。これからはずっと安全に暮らせる、そう期待もしていた。でも、単なる希望的観測にすぎなかった。

その美しい町に引っ越して十か月ほど経った頃、朝ニュースを見ていたら、ニュースキャスター二人が興奮した口調で速報を伝えてきた。三日前から行方不明となっていた女性が遺体で発見され、犯人は彼女の元カレだという。

「歪んだ性欲と妄想を抱く若い男たちの犯罪は後を絶ちません」

と一人が言えば、もう一人が、

「捌け口を失って、自ら暗闇に堕ちたくなってしまうんでしょう」

と受けた。沈痛な面持ちの中にも、もうこれ以上犠牲者が出てほしくないという強い思いが見て取れる。「彼らの行為は決して止みません、捕まるか、妄想を現実にするまでは」

その言葉が私には、「義兄、ロイの行為は決して止まない、私を殺すまでは」と言っているように聞こえた。でも気のせいにしたかった。今まで見つからなかったのだから、これからも見つからないだろう、もしかしたら私を追いかけ回すのに飽きてしまって、今頃は他の子をターゲットにしているかもしれない、その子と付き合ってすらいるかもしれないと。社会病質者が相手だなんて気の毒としか言いようがないけど、人の好みはそれぞれだ。

あの男さえいなければ気軽にショッピングを楽しめただろうし、友だちを作って遊びに出かけることもできただろう。大学にだって行けたかもしれない。そんな普通の若者がするようなことを、私は何一つできずにきた。全部ロイのせいだ。どこに行っても付きまとわれるかと思うと、ひとところに落ち着くのが怖い。

テレビを消し、隠れ住んでいる半地下から出たとき、住宅街を猛スピードで走ってくる茶色のセダンが見えた。道端にはコワルスキー夫人。少ない年金の足しになるならと私に間借りさせてくれている、親切な老婦人だ。

車は夫人の存在など気にも留めず、彼女めがけて突っ込んでいく。そこから離れて! と必死に叫ぼうとするのに、喉が締めつけられて思うように声が出ない。

彼女を弾き飛ばすと、車は角を曲がって見えなくなった。その一瞬の出来事が、まるでスローモーションのように私の中に映像化されていく。〝RN IF U CN(逃げられるもんならやってみろ)〟というナンバープレートと一緒に。

どの州に行こうがどんな小さな町に住もうが、ある日必ず眼前に現れるプレート。ロイのだ。彼が私の居所を突き止めたとわかり、一瞬で顔から血の気が引いた。

警察が来て事情聴取されたとき、「咄嗟のことで、何も覚えていません」と答えたのは、バニティ・プレート(有料でカスタマイズされたナンバープレート)を教えたところで何の意味もなさないと知っていたからだ。

あれは正式に認められたプレートではなく、ロイが私を苦しめたいときにだけ使用するもの。おまえの居場所を突き止めた、いつでも押しかけていけるんだぞ、という意図を明確に伝えるために……。

 

 

あのときの恐怖が蘇ってきて、汗をかいているのに全身が震える。

偉大なる宇宙よ、シンシナティでロイの車が現れる直前に見たあのニュース、あれは啓示のつもりだったのよね? 八年ものあいだ私が運に見放されてきた責任は自分にある、そんな憐れみで合図を送ってくれたんでしょう? だったら教えてよ、私の守護天使はどこにいるの? 教えるのはルール違反だというなら、せめてロイから逃げ切る方法を教えてくれる人に会わせて。

目の前に、男が一人飛び出してきた。宇宙からの二度目の合図だろうか。

立ち止まって呼吸を整えようとするけれど、なかなか元通りにならない。口呼吸も取り入れながら、私は深呼吸を数回繰り返した。

この人、目は充血して、髪はボサボサ。口から酒臭い息を吐き、何か月もシャワーを浴びていないのか体臭もひどい。こんなに不潔な人が、まさかの守護天使?

「美人なネエちゃん発見」

彼は黄色い歯を見せて笑い、「いいものを見せてあげよう」と言って、薄汚れたコートの前を開いてみせた。

「あ!」

飛び退いて、両手で視界を遮ってももう遅い。汚いソーセージがバッチリ見えてしまった。

腐ったレモンの次はこれ? もうっ、いい加減にして!

ぐふふ、と声がしたと思ったらそいつが近づいてくるのが見え、私はさらに一歩退がった。ジョギングとは別の理由で心臓の鼓動が激しくなり、アドレナリンが噴き出してくる。

ロイが差し向けてきた男ではなさそうだ。もしそうなら、この時点でロイ自身が姿を晒しているはずだから。

あいつにはまだ見つかっていない。すでにシンシナティを引き払ったのは知っているとしても、まさか西海岸に来たとは想像もしていないだろう。

よかった、ロイが関係してなくて。

安心したのもつかの間、私はあることに気づいてしまった。この辺りには木がたくさん生えていて、周りから死角になっている。人の気配もなく、たとえ大きな声を出したとしても、きっと誰の耳にも届かないだろう。

逃げるか戦うか、選択肢は二つしかない。

この変質者、いくらひ弱に見えるとはいえ、私より上背があり力も強いだろう。戦ったとしても、勝てる見込みはない。それより、貧弱な裸体を多くの目に触れさせたくはないはずだから、人が集まっているところに逃げさえすれば安全だ。

けれどそのとき、私の中にくすぶっていた怒りが突然爆発した。

相手は酔っ払いの、軟弱そうな浮浪者。こんな奴からでさえ逃げることしかできないの? 何も悪いことしてないのになぜ? ふざけないでっ。消えるべきはそっちでしょ。

何か武器はないだろうか、木の棒とか、大きな石とか。辺りを素早く見回していると、背後から口笛の鋭い音が響いた。少し離れた場所からのようだ。

誰か来た! もしもおまわりさんなら、早く、早くこのヘンタイを捕まえて!

ここよ、と言おうとして振り返ったとき、あまりの驚きに足がもつれ、尻餅をついてしまった。視界に入ったのが、歯を剥き出しにした三頭のドーベルマンだったからだ。戦闘用に訓練を受けたのだろう、三頭とも耳がピンと立っていかにも凶暴そうだ。あのトゲトゲの首輪に触ったら痛いだろうか、と頭の隅でぼんやり考えている私に向かって、三頭の犬たちは地面を蹴りながら突進してくる。そのスピードが速すぎて、立ち上がる余裕すらない。

喉元に噛みつかれるのだろうか。ヘンタイだけでなく刺客まで送り込んでくるなんて、宇宙は私をLAから追い出したいのかもしれない。いいえ、LAだけでなく、この地球上から抹殺しようとしている?

小さく叫ぶ男の声が聞こえた。

あんたは関係ない。叫びたいのは私のほうよ! どうせツキに見放されて——、

と、犬たちは私の横を素通りし、そのうちの一頭が男に飛びかかって押し倒した。身体の上に前足を残したまま、他の二頭と一緒に唸り声を上げている。

男のソーセージは小さく萎み、オシッコが垂れ流れている。

うっ、惨め。というより気持ち悪い。

私は犬たちを刺激しないよう、注意を引かないよう、ゆっくりと慎重に立ち上がった。でも三頭とも地面に倒れ込んでいる男にしか興味がないらしく、私には目もくれない。もしかして、ヘンタイ以外はむやみに人を襲わない、というのも訓練の中に含まれているのだろうか。

「ありがとう」

私は後ずさりしながらボソッと呟いた。匂いを嗅がせるために手を伸ばすようなマネは絶対にしない。カフェでの仕事では両手が必要。初日から入院、なんてことになったら即クビにされてしまう。

男を取り押さえているのとは別の犬が、前足で彼の股間を引っ掻いた。

「ひいっ!」

恐怖より痛みのほうが勝ったのか、男は胎児みたいに身体を丸める。

「やめといたほうがいいわよ」

引っ掻いた犬が剥き出しのお尻に噛みつこうとしているように見え、私は思わず声をかけていた。「シラミかお尻のバイ菌がうつるかもしれないから」

噛みたいならもっと清潔なお尻にすれば? ちなみに、ジョギング直後の私のお尻も汗だくで、たぶんバイ菌ウヨウヨよ。

「ストラヴィンスキー、ノー!」

硬く、しわがれた声がし、犬は即座にお尻の品定めをやめた。おすわりして、舌をだらんと出すその姿が、あたかも「次の命令は何? ぼく、言うことをちゃんと聞くいい子でしょ?」と言っているようで、可愛くさえ見えてくる。他の犬たちも〝ストラヴィンスキー〟に倣った。

すごい。凶暴さは跡形もなく消え、一転してみんな柔和な表情になっている。よく訓練された犬たちだ。

木々の間から現れた飼い主は、とても背の高い人だった。上背があるだけでなく、肩幅が広くて筋肉質。でも、ジムで鍛えたというより、力仕事で筋肉が自然についたような感じだ。

白いTシャツに擦り切れたブルー・ジーンズ、爪先の硬そうなブーツが特徴的。あれで蹴り上げられたら、ものすごく痛いんだろうな。

黒髪は短く刈り上げられている。濃い色のサングラスをしているために、見えるのは広い額や細い鼻、薄い唇、それに、頑固そうな顎。安心感を持たせようという気はさらさらなさそうで、こっちがぎこちなく微笑みかけてもニコリともしない。黙って近づいてくるだけだ。

サングラスの奥から観察されているのが感じられ、なぜだか鼓動が高鳴ってきた。

彼の目に私はどんなふうに映っているのだろうと思い、自分の姿を見下ろして情けなくなってくる。シャツもパンツも汗にまみれ、転んだときの土で手のひらも汚い。たぶん、お尻も汚れているだろう。

恥ずかしいけど仕方がない。それより、露出狂と友だちだと誤解されたくなくて私はこう言った。

「あなたの犬たちに助けてもらいました。ありがとうございました」

彼は無言のままだ。でも、せめて名前ぐらいは教えてもらえないだろうか。「私はアンジェリカ。あなたは?」

返事をする代わりに、彼はまた口笛を吹いた。するとドーベルマンたちがさっと動き、彼の後ろに行儀よく並んだ。本当に、よく訓練されていて感心する。

「それをちょん切られたくなかったらさっさとしまえ」

犬の飼い主は、ヘンタイに向けてそう言い放った。まるでそいつの存在そのものが気に食わないかのように冷淡な言い方だ。

「う、うん。わ、わかった」

ヘンタイはすぐさまコートの前を閉じ、両腕を身体の前で交差させた。片脚に沿って、新たな液体が滴り落ちている。

「失せろ」

声を荒らげてはいないのに、救世主の言葉は威厳に満ちている。

「も、も、もちろん。すぐ行くよ」

ゆっくりと後ずさりし始めるヘンタイの様子を見て、一頭の犬が吠えた。トロトロするんじゃない、と叱られていると思ったのか、男は足を取られながらも一目散に駆け出した。片手でコートの前を押さえ、もう片方の手で股間を守りながら。

そいつの姿が見えなくなったのを確認し、改めてお礼を言おうと振り向くと、私のヒーローはすでに背中を向けていた。その後ろを犬たちが、彼を守るかのように隊列を組んで歩いている。

「本当に、本当にありがとうございました!」

肩越しにチラッと振り向いた顔にかすかな笑みが浮かんだけれど、そのまま前に向き直った彼は、二度と振り返らなかった。

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