単行本, 第5巻
このまま父と一緒に暮らしていたら、いつまでたっても独り立ちできない。それどころか、愛してもいない人と結婚させられる羽目になる。
そう思った私は必死で就職先を探し、バージニアにある「スイート・ダーリングズ」という会社に運良く入社することができた。
一年後、LAに支社を出すことになり、直属の上司デイビッドがその責任者として出向くことになった。故郷を捨てる絶好のチャンスとばかり、私も喜んでついていくことにした。そうすれば父からも心ない人たちからも逃げることができ、新たに出会う誰にも秘密を知られずひっそりと、でも自由に生きていけると思ったからだ。
さらに一年近くが経過し、ある土曜の夜、デイビッドから緊急の呼び出しがあった。休日ではあるし仕事とは関係ないけど、ぜひ力を貸してほしいという。
頼み込まれて一晩だけ彼の恋人役を演じることになったものの、そこにマスコミが絡んできたため、話がややこしくなった。誰がどう聞き違えたのか、私とデイビッドが婚約したと書き立てられてしまったのだ。
すぐに訂正することもできたけど、
「この状況を利用しませんか」
と提案してみた。そうすることで彼は面倒くさい元カノを追い払えるし、私は私で、父の要求を退ける立派な言い訳になると考えたからだ。
デイビッドも賛成してくれた。もちろん婚約はフェイクで、ほとぼりが冷めた頃に〝解消〟することになってはいるのだけれど、問題は、彼が私を妙な気分にさせること。
慎重に築いてきた壁が、このままでは崩されてしまうかもしれない。もし秘密を知られてしまったら、私はどうすればいいのだろう。
ピロロロロ、ピロロロロ……。
ん? 携帯電話の着信音? やめてくれ、二日酔いの頭に響く。
ピロロロロ、ピロロロロ……。ピロロロロ、ピロロロロ……。
鳴り止まない音を強制的に止めるには、電話に出るか赤いボタンを押すかしかない。俺はナイト・テーブルの上を手探りで探った。
ようやく掴んだ携帯。腹立ち紛れにプチっと切ってやろうと思ったが、念のために発信者を確認して、大慌てで電話に出る。
「やあ、母さん、久しぶり」
寝起きのせいで、かすれた声しか出なかった。
『久しぶり、じゃないわよ。なあに、その声。ガラガラじゃない』
母の声は、いつも通り溌剌としている。『まだ寝てたの?』
「そりゃそうだよ。こっちは西海岸なんだから」
携帯を離して時間を見ると、やっと九時になるところだ。
『だから?』
「そっちより三時間も遅いってこと」
『知ってるわよ。九時なのにまだベッドの中にいるってことが問題なんじゃない。そんな自堕落な息子に育てた覚えはありませんよ』
今朝は特別なんだって! 秘書の作ったクッキーで死にかけて、地元のバーを同僚とハシゴしてその毒を中和し、帰宅したのは午前二時過ぎ。でもそんなこと言えるか? 言えないよな。っていうか、俺のこのデリケートな心情なんか、絶対に理解してもらえないよ。
母は完璧な朝型人間で、毎朝五時にはベッドを出る。もう習慣になっていて、就寝時間がいつもより遅かろうと、深夜に目が覚めようと必ず五時起きだ。
『そうねえ、子育て中で寝不足っていうんなら、朝の九時にベッドにいても自堕落だとは思わないけど?』
何が言いたいのかはわかる。母は孫ができることを望んでいて、機会さえあればこんなふうにプレッシャーをかけてくるのだ。最近はずっと鳴りを潜めていたのに、急にどうしたというのだろう。
『もっとも、その前にお相手がいないことにはどうしようもないんですけどね』
胃がムカムカしてきた。もしかしたら、クッキーの毒を中和させるためのアルコールが足りなかったのかもしれない。
クッキーを作ったのは秘書のエリンだ。彼女、中に何を入れたんだろう。まったく、可愛い顔してとんでもないもん食わせるよな。いつもながら。
付き合っていたカノジョにフラれた直後で頭が正常に働いていなかったとはいえ、実務経験も技量もほぼゼロだったエリンの採用を決めたのはこの俺だ。感謝されこそすれ、恨まれる覚えはない。嫌がらせってわけでもあるまいし、俺が何したっていうんだよ。
ドアベルが鳴った。変だ。門の暗証番号を知っているのは全部で三人。そしてその中の誰一人、土曜の午前中に押しかけてくるほどヒマじゃない。
「誰か来たみたいだからもう切らないと」
『あら、そう?』
母の口調は妙に軽やかだ。不服そうでもない。だが、クッキーとアルコールのせいで頭がボーっとしている今の俺に判断能力などなく、深くは考えられなかった。それよりも、これ以上〝孫催促〟を聞かされたくないという気持ちのほうが強く、とにかく早く電話を切りたい。
「うん。じゃね、母さん。声が聞けて嬉しかったよ」
素早く通話終了してベッドを降りたとき、長く曲がりくねった階段を下りなければならないことに改めて気づかされた。
くそっ、どうして二階建ての家なんか買っちまったんだ? そうか、陽光降り注ぐ豪邸が欲しいなら是非こちらです、と不動産屋にパンフレットを見せられたからだ。せっかくカリフォルニアに住むというのに、日差しを享受しない手はない、と強く勧められ、当時の俺は簡単に乗せられてしまった。
でもあれはシラフのときで、今この瞬間は、ベッドのすぐ横にコーヒー・メーカーがあるような狭い家にすべきだったと心の底から後悔している。
内装を根本から見直したほうがいいだろうか。ただ、玄関ドアの向こうにいる人物を先にどうにかしないと。さっきから五回も鳴らしているということは、こっちがドアを開けるまで居座る気でいるのは疑いようがない。
ようやく階段を下りきった。キッチンの横を通り過ぎるとき最新式のエスプレッソ・マシーンが見え、ベルを押し続ける人物を恨まずにはいられなくなる。なにも今じゃなくてもいいじゃないか、せめてカフェインを摂取するまで待ってくれてもよかったじゃないかと。
誰が来たのか知らないが、これはきっとデインの差し金だ。
LAに家族も親戚も持たない俺は、万一のときのため、本当に信頼できる人間だけに暗証番号を教えた。そして、その一人が彼だった。なぜあの無愛想な男を信頼できると思ったのか、今となっては謎なんだが。
「何だよ」
ぶっきらぼうにドアを開けると、外に立っていたのはエリンだった。
「えっと、おはよう……ございます」
消え入りそうな声を聞いて、イライラが急速に収まっていく。襟ぐりの丸いブラウスと、ストンとした普通のスカートは相変わらず地味。今に始まったことじゃないから驚くには値しないのだが、注目させられるのはその表情だ。大きな青い瞳が、どういうわけかショックを受けたように見開かれている。
混乱しているのはこっちのほうだと言いたい。今日は土曜だし、急ぎの仕事もないのに、なぜ仕事着で我が家に現れたのかと。
俺が何も言わないでいると、彼女は喉をゴクリと鳴らした。
「あ、あの……」
そう言ったきり、顔を染めて視線を泳がせた。
なぜ赤くなる? ……うっ、そうか。よく見れば、俺はボクサー・パンツ一丁だ。しかも、おそらく酒の臭いをプンプンさせ、目も充血しているに違いない。おまけに無精髭は伸び、仕事中とのギャップが激しすぎて、それで唖然としているのだろう。だがもう遅い。
「約束してたっけ?」
俺は何も聞いてないぞ。いや、何か言ってたのかもしれないが、魔のクッキーからどうやって逃れようかそればかり考えていて聞き逃したのだろうか。
彼女が時おり作ってくるスイーツには、隠し味と称してたまにとんでもないものが入っている。いつだったか、中が生焼けに近かったことも。しかし俺はそれらを一度も指摘したことがない。ヒジョーに妙な話だが、「きみの作る菓子は食べられたもんじゃない」とはっきり口に出すことができないのだ。
だいたい、名前がエリン・クレアなんだぞ。略せばE・クレア——エクレアだ。菓子作りの才能が少しぐらいあっても良さそうなもんじゃないか。
「何の用?」
どうした俺? 礼儀はどこへやった? 祖母がここにいたら勘当もんだ。第一、休みの日にわざわざ来たんだから、大事な用事があるに決まってんだろ。
「あ、ごめん。とにかく入って。服を着てくるからその辺で待っててくれないか。すぐに戻る」
「コーヒーはもう召し上がりましたか」
立ち去る俺の背中に声がかかり、
「いや、まだだ」
答えた直後に不安になった。
母の送ってくれたコーヒー・メーカーは、マニュアルのないAIマシンみたいなものだ。だから、使ったことのない人間がコーヒーを淹れようとすれば、悲惨な結果になるのは目に見えている。
俺はエリンを振り返った。
「けど、なんにもしなくていいからね」
前に休憩室でラテを淹れて持ってきてくれたことがある。旨くはあったが、他の誰かに淹れてもらったのかもしれず、彼女の不器用さが菓子作りに限定されるのか家事全般なのかわからない以上、不用意に頼むべきではないだろう。
「そんな、遠慮なさらないでください」
遠慮なんかしてない。誤解しないでくれ。
「ほんとにいいんだ。きみの仕事じゃないんだから」
俺は自分の秘書を〝お茶汲み〟扱いしたことなどなく、強制も示唆もしない。
「わかっています。ただ、お役に立ちたいだけなんです」
そこまで言われては逃げ場がなくなった。彼女の淹れるコーヒーが、クッキーよりマシなことを祈るばかりだ。
「そうか。じゃあ頼もうかな」
寝室に戻ってアスピリンを四錠飲み、白いシャツと短パンを身に着けて階段に向かったとき、自然と足が止まった。
待てよ? 香しい匂いを放つ女性のそばに戻るんだから、俺も少しは気を配ろう。
エリンがまだコーヒー豆を見つけていないことを祈りつつ、バスルームに入って歯を磨き、顔を洗い、改めてキッチンを目指した。だが時すでに遅し。キッチンからはいい香りが漂っている。
「あら、ちょうどよかったです」
彼女はニッコリと微笑み、マグカップに手を伸ばした。その身体はしなやかに動き、長い脚がスカート越しに浮き彫りになる。プライベートな雰囲気でエリンと顔を合わせるのは、しかも俺の自宅のキッチンに立つ彼女の姿を見るのは初めてで新鮮だ。
「どうぞ」
「ありがとう」
手渡されたマグカップに口をつける。味は、まぁ悪くない。なるほど、コーヒー・メーカーの扱い方は知っているみたいだ。
「で? どんな用事?」
「お母さまからお電話がありました。あなた宛てに大切なものを送るから、間違いなく受け取るよう見届けてほしいとおっしゃったので」
ふうむ、さっき話したときは何も言ってなかったが?
母が俺の秘書に頼み事をするのはこれが初めてじゃない。だが、秘書といっても前任者はイトコのジャンだったから、親戚のよしみで気軽に頼めたのだろう。しかし、上司と秘書という以外にエリンとはどんな関係もないのだから、いくら母でも仕事に関係ない用事を言いつける権利などないはずだ。
「申し訳なかった。そういうの、今度から無視してもらって構わないからね」
「いえ、お気になさらないでください。私はあなたの秘書なんですから」
せっかくの週末を邪魔されたことなど少しも恨んでなさそうな口振りだ。「私、お役に立てるのが嬉しいんです」
マジで? 休みの日でも? それが本心なら、変わった女性だということは否定できない。
「そっか。ありがとう」
チャイムの音が聞こえてきて、エリンはさっと耳をそばだてた。
「誰かが門の外に来たみたいですね。きっとお母さまのおっしゃってた荷物が届いたんでしょう。重いものだからすぐに中に入れてあげてと頼まれてるんです」
彼女はいそいそとリビングに向かい、パネルを操作して門のセキュリティを解除した。
しばらくして、青い制服を着た男が二人やってきた。梱包されているため中身まではわからないが、部屋の壁一面を埋め尽くすほどデカくて平べったいものを慎重に提げている。
あれは何だ? 特大のテレビか? いやいやあり得ない。すでに四台持っているのは母さんだって知ってるし、テレビごときを送ったからといって、エリンにわざわざ連絡するはずもない。
俺はコーヒーをもう一度啜った。カフェインをより多く摂ればそれだけ脳の活性化を助け、母が何を企んでいるのかわかるかもしれない。
「よかった。時間通りのようですね。そのまま運んでいただけますか。こちらです」
と言って、エリンはさっさと階段を上り始めた。「階段が螺旋状になっています。足元にお気をつけください」
男たちは貴重な美術品でも運んでいるかのように、彼女のあとについて上る。そして俺は、エリンのすらっとしたふくらはぎを見つめながらコーヒーをさらに啜った。うーん、綺麗な脚だ。
「主寝室へお願いします」
は? ちょ、待てよ。俺の部屋はすでに快適だ。今さら何かを追加する必要なんかないぞ!
エリンがこの家に来るのは初めてじゃない。急ぎのプロジェクトがあったとき、その手伝いで二、三度リビングに通したことはある。だが、二階を見せたことはなく、七つもある部屋のどれが主寝室なのかわかるわけがない。
そう確信しつつも、俺は腹立ちを抑えて階段を駆け上った。
ところが、最後の段に足をかけたときには、長い廊下の一番奥にあるドアが開け放たれていて、男たちが荷物を運び入れ終えたところだった。母がエリンに予め間取りを教えていたのは明らかだが、俺の部屋に何が足りないと思っているのかさっぱりわからない。
「そこです」
エリンの声がして、「はい」という返事とともに、電動ドリルのような機械音が聞こえ始めた。
何が始まる? 母さんは何を送りつけてきたんだ?
部屋に辿り着いた俺が見たのは、まさしくドリルで壁に穴を開けている男たちの姿だった。しかも位置からして、ベッドに寝転んだらちょうど見えるような恰好だ。やはり梱包されているのはテレビしか考えられない。
寝る直前にテレビやスマホなどの画面を見続けていると、睡眠の質が低下するという事実を知らないのだろうか。俺はたっぷり七時間の休息を取りたい。だから敢えてベッドの近くにテレビを置かないでいたのに。
これからホーム・センターに出向いて、開けられた穴の補修をしないといけなくなった。くそっ、せっかく綺麗だった壁が台無しじゃないか。余計な仕事まで増やしやがって。
「あそこにテレビは掛けたくない」
独り言を言うと、エリンから意外な言葉が返ってきた。
「ご心配なく。あれはテレビじゃありません」
テレビじゃない?
彼女の顔は実に晴れやかだが、俺には悪い予感しかしない。
「楽しみにしていてください。作業が終わるのを待つ間、コーヒーのお代わりでもいかがですか。淹れてきますね」
彼女は今しも部屋から出ようとしている。
「待って」
思わず掴んだ腕は柔らかく、俺は火傷でもしたかのようにパッと手を離していた。
なんだ? 二日酔いのせいで神経が昂ぶってるのか?
「何でしょう?」
「お代わりは要らないよ。ありがとう」
「そうですか」
彼女の目が壁に吸い寄せられていく。そして、次の瞬間には感激したように両手を握り締めた。「わあ!」
釣られて振り向いた俺の身体が固まった。
なんだよ、あれ。なんであんなもんをこの部屋へ?
梱包を解かれてまさに掛けられようとしているのは、イトコのジャンとその夫のマット・アストンが写っているポートレート写真だった。等身大で、ルノワールやモネの絵同様、額縁が金色だ。
ジャンはハイ・ウェストのワンピース姿だが、腹に赤ん坊がいるのが服の上からでもわかる。
撮られるときにカメラを見ていたのだから当たり前なのだが、二人ともまっすぐにこっちを見つめてくる。そして、写真の下に書いてあるのは、〝男の求めるものがすべてここに詰まっている〟という言葉。
あれを毎日見させられるのか? 冗談じゃないぞ。
「いい写真ですね」
配達員の差し出したミニ・タブレットにサインしながらエリンが言った。異を唱えたかったが、輝く瞳を見ていると何も言えなくなる。
「お母さまおっしゃってましたよ、朝、目が覚めて最初に見て、夜、最後に見るのに最も適したものを送ったって」
「へええ、そうなんだ」
他に何が言えるっていうんだ? エリンはただ母に頼まれて来ただけなのに。
男たちが帰っていくのを見届けると、彼女は晴れ晴れとした顔でこう言った。
「では、私も無事仕事を終えましたので、これにて失礼いたします」
「ありがとう」
俺は努めて平静を装う。「じゃ、月曜日に」
「はい。何かありましたらお電話かメッセージをください」
彼女が出ていってからベッドに横になり、改めて写真を見ると、ジャンとマットが見下ろしてくる。二人には全くそんなつもりなどないとわかっているが、自分が批判されているような気になってくるし、等身大ということもあってゾッとしてきた。
やっぱりあれは一刻も早く下ろして、さっさとどっかへやらないと……。
電話が鳴った。母からだ。
悪ふざけにも程がある、と文句を言おうとしたら、その前に母が釘を刺してきた。
『外してしまおうなんてゆめゆめ考えないで』
「もう取り付けてあること、なんで知ってんだよ」
『エリンが連絡くれたの。彼女、いい人ね』
もちろん彼女はいい人だ、こっちが期待した以上に。だが、母の言いなりにだけはなってほしくなかった。
「寝室には置いておけない。こんなもんがあったら夜眠れないよ」
『んまあ、この子ったら。置いとけるに決まってるでしょ? こうでもしないと、自分に課せられた義務も忘れてしまうんだもの』
「義務って? 母さん、俺、母さんの反対を押し切ってこっちに来てしまったけど、基本的にはいい息子だよね? 反抗期だって短かった。今さら何かを義務づけられるほど悪いことした覚えもないんだけど」
『誰もそんなこと言ってないわよ? あなたの義務はただ一つ、その家の寝室を全部赤ちゃんで埋めること。どう? 単純明快じゃないの』
俺の家の客用寝室は全部で六部屋ある。つまり、子供を六人作れと言っているのだ。
「今どきそこまで子だくさんのカップルなんていないよ。第一、六人も欲しいなんて言おうものなら、誰もデートに応じてくれなくなる」
そりゃあいずれは一人か二人は欲しいが、六人? 無理に決まってんだろ。数週間ぶりに連絡してきたと思ったら、何バカなことを。
『デイビッド、あなた、マーケティングの責任者なんでしょう? 自分の売り込み方ぐらい工夫なさい。それにね、お嫁さんというものは、何事においてもお姑さんに勝ちたいものなの。私は子供が三人いるから、その人数を上回ってみせるって張り切るわよ、きっと』
「子供の人数で勝ち負けを競うなんて無意味だよ」
『アレクサンドラはね、もうすぐひいおばあちゃんになるの』
知ってるよ、あと何か月かしたらジャンの子供が生まれるんだから。でもだからどうした? 俺の話、ちゃんと聞いてるか?
『私だって早くおばあちゃんになりたいわ』
「母さんはアレクサンドラよりずっと若い。比べるのはおかしいだろ」
『だからよ! 孫がいてもそれを信じてもらえないっていう状況に憧れてるの。若いおばあちゃんですね、とてもお孫さんがいる歳には見えない、ってみんなから言われたいじゃない』
女性としての虚栄心に訴えかければあるいは諦めてくれるかと思ったが、どうやら逆効果だったみたいだ。
『デイビッド・フランシス・ダーリング、こっちに帰ってきたときに私のブラウニーが食べたいなら、その写真はちゃんと飾っておきなさい。わかったわね』
電話は切られた。
母の作るブラウニーは絶品だ。もし帰省する機会があるのなら、何があってもあれだけは諦めたくない。