玄関のドアが開く音を聞いて、ライダーがまた来たかと舌打ちしそうになった。しかし、考えてみればこんな朝早くから他人の家に押しかけるような奴じゃないし、あいつはここの鍵を持っていない。
じゃあ誰だ、と玄関に向かって進みかけ、思わず足が止まる。
数メートル先にアイビーが立っている。ストロベリー・ゴールドの髪が肩の辺りでふわっと揺れ、淡いカーマイン(洋紅色)のワンピースによく似合っている。
自分の目が信じられなかった。それでいて動けなかった。近づけば消えてしまう砂漠の蜃気楼のように、彼女も消えてしまうのではないかと怖かった。幻でもいい、妄想でもいい、あの姿が見えている間はずっとここに留まっていようとさえ思う。
ふと、アイビーの陰に隠れるようにして立っている女性が見えた。金髪で、小柄で……、
母さん! アイビーの葬式で会ったきり一度も顔を合わせなかった母が、すぐそこにいる。上品で美しい顔にシワはほとんど見られず、覚えている通りのスリムな体型だ。
これも幻なのか? いや、違う。母は紛れもなく俺のペントハウスにいる。だがなぜだ? この十八年間、俺を無視し続けてきたくせに、なぜ今頃になって。
ヨーロッパの寄宿学校にいた頃、母に宛てて何十通も手紙を書いた。しかし、未開封のまま一通残らず送り返されてきた。プリンストン大学を卒業してテンペランに戻ったときも、追い出されはしなかったものの、冷ややかな反応だった。歩み寄ろうとか赦そうなどという素振りは一度も見せてくれなかった。それどころか、俺への嫌悪感を隠そうともしなかった。幼い命を奪ってしまったこの俺への。
俺の前を素通りして真っ直ぐリビングに向かった母は、迷わずスタインウェイに歩み寄って大屋根(蓋)を開け、中の弦を覗き込んでいる。いったい何を確かめたいのかはわからないが、その落ち着き払った様子を見ているうち、俺は異様な感覚に囚われた。
アイビーを見ても驚いていない? 普通ならもっと違った反応を見せるものだろうに、これはいったいどういうことだ?
彼女が生きていたのを知っていたとしか考えられないが、問題はいつ知ったかだ。たまたま今日だったのか? それでさっそくアイビーに連絡を取って、俺の悪口を吹き込んだのか? 自分の目で確かめろなどと言って彼女を巧みに誘い出し、二人して乗り込んできたというのだろうか。
「何をしにいらしたんですか」
そう質問した俺に、鋭い視線が向けられた。すでに免疫がついていると思っていたのに、全然そんなことはなかった。その冷たさ、残酷さには、こっちを萎縮させる力がまだ充分ある。
譜面台に残された楽譜をきちんと揃えると、母はようやく口を開いた。
「サムが亡くなって、彼女は」
アイビーを顎で示している。「一人ぼっちになった。あのバカ息子は頼りにならないし」
投資までしてピーチャー親子に肩入れしてきても、彼らを軽蔑する気持ちに変わりはないということか。
「花嫁には母親が必要でしょう?」
いきなり冷水を浴びせられたようなものだ。
母親? アイビーの? とんでもない!
母はおそらく、全力でアイビーを俺から引き離すつもりなのだろう。婚約がすでに解消されたとも知らず、彼女の前で俺をこき下ろし、いかに罪深い人間かを懇々と説き、後悔する前に結婚を取りやめさせようという腹なのだ。
せっかくアイビーが会いに来てくれたのに、目の前で希望の芽が摘まれるというのか!
そうはさせるか。
「あなたは彼女の母親じゃありません」
「ええ、養子縁組が済むまではね」
養子縁組だと! アイビーを引き取ってから何年経っても養女にしようとしなかったのに、どうして今になってそんなことを言い出す?
事故以前、母にとってアイビーはキャサリンの〝代用品〟にすぎなかったのだと思う。キャサリンが幼くして死ななければ、ペリー叔父夫婦が亡くなったからといって、その養女だったアイビーを引き取ろうという気にならなかったのではないだろうか。
「彼女はもう二十七ですよ。立派な大人だ。養女にするには遅すぎるのではありませんか」
母の冷たい視線がさらに冷たくなった。
「仕方ないでしょう? 溺愛しようにも本当の娘はもういないんだから。あの子がもし生きていたら、わたくしだって今さらこんな提案をすることもなかったわよ」
口を開くといつもこうだ。グサグサ突き刺しては思い出させようとする。そんなことをしなくても、俺自身、自分を赦すつもりなどないというのに。
キャサリンの短い息遣い、怯えた声、真っ赤に染まった服。両手でしっかり押さえても、血は止まらなかった。小さな身体からこんなにもたくさんの血が流れ出てしまったら……、そう考えると怖ろしくてたまらなかった。
あのときの光景は今も記憶に刻まれ、これからだって決して忘れることはない。
アイビーが驚きの目で俺を見ている。この反応を見る限り、母からまだ何も聞かされていないと推測できるが、余程の事情があると察したのは間違いない。結局、この場で全部知って、俺への嫌悪感を増幅させるだけで終わってしまうのか。
「あーあ、コーヒーが飲みたいよー」
階段から能天気な声が聞こえてきた。ハリーだ。助かった!
「いい加減外へ出て、旨いもんでも食いにいこうぜ。もちろん兄貴の奢(おご)り——」
言いながら下りてきた彼は、母の姿を見て絶句した。
「……母さん!」
シャワーを浴びたらしく、Tシャツとデニムの短パンで身なりを整えている。「来るなんて言ってなかったじゃないか。俺に会えないのがそんなに寂しかった?」
ハリーは母のお気に入りで、それを本人も心得ているから、いつもすんなり懐に飛び込んでいく。母も滅多なことではハリーに不機嫌な顔を見せない。
「もちろん寂しかったけれど、テンペランを離れるたびに行き先を報告する義務はありませんよ」
弟が母を抱き締めると、母は彼の肩に両手を置き、昔と同じように頬にキスした。何度も見た光景なのに、その仕草は今もなお俺の心に小さな痛みをもたらす。
ハリーがニヤリと笑った。
「そうじゃなくて、来るって知ってたら空港まで迎えにいったのにって意味だよ。これじゃ俺、気が利かなくて、出来の悪い息子だろ?」
母は「フフフ」と声に出して笑った。「あなたはわたくしの自慢の息子よ。出来が悪いだなんてとんでもないわ」
自慢の息子……。かつては、十八年前キャサリンが亡くなる直前までは俺に向けられていた言葉だった。ハリーが羨ましいというより、母にそう呼んでもらえなくさせた過去の自分が忌まわしい。あのときのことが元で、今や勘当の身だ。
照れ隠しのつもりなのか、ハリーは髪の毛に手を突っ込んでちょっと俯いた。
「俺、すごく腹が減ってんだけど、ここの冷蔵庫にはなんにもなくてさ、このままじゃ朝メシを抜くしかなくなる」
昨日の夜たくさん買い込んできたにもかかわらずそう言わないのは、おそらく母を連れ出す口実を作ろうとしてくれているからだ。
「それはよくないわ。朝ご飯は一日の中で一番大切なお食事よ」
母から非難するような目が向けられても、口答えできる立場じゃないとわかっている。朝食はおろか、昼も夜も満足に食事をしていない身で、どんな言い訳ができるというのだろう。
「だよね!」
ハリーの声が俄然勢いづいた。「何か美味しいもん食べに連れてって。もちろん母さんの奢りで」
「わたくしの?」
「こっちは貧乏学生なんだよ?」
ハリーは子犬のような目で母を見つめた。「お願い」
仕方ないわね、と言いながら、母がフッと微笑んだ。「いいわよ。何でも好きなものをお食べなさい」
母のあとについて玄関へと向かい始めたハリーは、声に出さず口の動きだけで「頑張れ」と言ってくれた。持つべきものは弟だ。
玄関ドアが閉まっても気は抜けない。母への警戒心に取って代わり、アイビーに対する緊張感が高まっただけだ。
ここへ来てから、彼女はひと言もしゃべっていない。家族間の軋轢を思いがけず披露してしまったため、呆れさせたのだろう。だがそんなことより、気が変わったと言いにきたのか、言い足りない文句をぶつけにきたのか、俺としてはそっちのほうが気になる。
「コーヒーでも飲む? すぐに沸かせるよ」
首を横に振りかけた彼女が、思い直したように頷いた。
「ええ、いただくわ」
柔らかな声を聞いて、緊張感が少しだけ解けた。少なくとも怒鳴り込むつもりで来たのではなさそうだ。
キッチンに行き、フィルターと水をセットする。豆を投入口に入れるとき、手が少し震えた。
コーヒーメーカーが自動で豆を挽き始めると、苦味と甘味のある香りが広がり、やがて熱々のコーヒーが出来上がった。
話をどう持っていこうか考えながら、俺はゆっくりとコーヒーを注いだ。ハリーが何を買ってきたのか知らないが、食べるものを用意すれば、そのぶん長居してくれるだろうか。
マグカップを渡すと、彼女は小さくひと口飲んだ。
「美味しい」
「気に入ってくれてよかったよ。ところでボビーは?」
本来はここにいるべきなのに、職務怠慢とは言語道断だ。
「エレベーターに乗るところまでいてくれたのよ。でも、私のほうから頼んで、今は車の中で待ってもらってるの」
アイビーのほうから頼んだのなら、まあ仕方がないだろう。
「さっきのがあなたのお母さんなのね」
「うん」
「ロビーで偶然お会いしたの。あなたに会いたいのかと思ってたけど、どうもそんな感じじゃなさそうね」
「勘当されてるんだ」
俺は今まで、そのことについて触れないようにしてきた。サムとのやり取りをそばで聞いていたから知っているのは間違いないが、自分から持ち出せば理由を話さざるを得なくなる。それは最も避けたいことだった。
アイビーに嘘がバレて今度こそ真実を語ろうと決意したものの、今またその決心が揺らいでいる。過去の闇を打ち明ける心の準備が、一度はできていたはずなのに。
「私がテンペランにいた頃からあんなふうだったの?」
彼女が事実をどこまで把握しているのかわからない以上、下手なことは言えない。
「さあ、どうだろう。俺はずっとヨーロッパにいて母と顔を合わせなかったから、当時の様子は知らないんだ」
「どうして私を養女にするなんて言い出したのかしら。もしかして、前にもそうしようとしてた? でも何らかの事情で上手くいかなかったとか?」
「いや、それはないと思う。ブラックウッド家はかなり裕福で力もあるから、したいことがあれば大抵のことは実現できるんだ。父は母の言いなりだしね」
キャサリンの死によって、母は心に大きな傷を負った。その傷を癒やすためなら、父は何だってする人だ。仮に養子を何十人も迎えたいと言われれば、きっと叶えてやっていただろう。
アイビーは再び沈黙し、考え込むような素振りを見せた。はっきりと別れを告げようとしているのかやり直そうとしているのか、その表情からは読み取れない。
だが、俺の謝罪を受け入れようとせずあっけなく追い返したのはほんの二日前だ。やり直そうとしているのだと期待するには期間があまりにも短すぎる。たとえ都合よく心境に変化があったのだとしても、さっきの母との会話を聞いて再び考え直したかもしれない。
沈黙に耐えられなくなり、俺はとうとう口を開いた。
「まだ母のことが聞きたい? その話をしにきたの?」
「ううん、お母さんのことは全然頭になかった」
「じゃあ……?」
期待が一気に膨らんだ。もしかしたら、もしかしたら許してくれる気になったのだろうか。
「よく考えてみたの。このまま終わりにしたとして、本当に後悔しないのかなって」
怒り足りないという理由でもいいから、どうか、戻ってくる気になったと言ってくれ!
「はっきりとした答えが出たわけじゃないけど、あなたを信じたいと思う自分が確かにいるの」
俺をじっと見つめるアイビーの、その目の奥に恐怖が見え隠れしている。間違った決断を下そうとしているのかもしれない、再び心を開けばもっと辛い思いをさせられることになるかもしれない、と気後れしているのだ。
その恐怖心を彼女に植えつけた自分が嫌になる。しかし、諦めるのは嫌だ。「俺はきみに相応しくない」と言えるほど、思い切りのいい人間なんかじゃない。
「この前も言ったけど、壊れた信頼を回復するのは簡単じゃないわ。無謀な賭けをしようとしているのかもしれない。だけど、それでもやってみたいの。自分の気持ちとあなたの気持ちを確かめてみたいのよ」
「俺も全力を尽くす。信頼を取り戻すためなら何でもするよ」
アイビーは唇をギュッと一度結んでから再び話し始めた。
「だったらこの瞬間から約束できる? どんなに隠したいことでも、もう絶対に嘘をつかないって」
約束できるのか? 醜い過去を洗いざらいぶちまけることになるかもしれないんだぞ。その勇気をもう一度掻き集められるのか? 訊かれたことにだけ正直に答えればいいなどと安易に考えていたら、今度こそ彼女を失ってしまうんだぞ。
だが、これしか道がないのなら、今ここで思い悩んでも仕方がない。
「約束するよ」
迷いが吹っ切れたかのように、アイビーは目に固い決意の色を浮かべた。
「よかった。まずはそこから始めましょう。他にも問題は出てくるかもしれないけど、その都度話し合うようにすればいいわよね」
「ありがとう」
俺は心から礼を言った。アイビーさえいてくれるなら、あとのことはどうにかなる。いや、どうにかする。
「さっそくだけど、シャワーを浴びたほうがいいんじゃない?」
鼻にしわを寄せてはいるが、言い方は優しかった。
「そんなにひどい?」
「ええ。それとトニー、ちゃんと食べましょう。自分をもっと大切にしないと」
呼び名が〝トニー〟に戻っている。こんなに嬉しいことはない。だが、シャワーを浴びている間にいなくなりそうで、腰を上げる気にはなれなかった。
「コーヒーを飲み終えてもここで待ってる」
俺の気持ちを察したように彼女が言った。「実は朝ごはんもまだだから、シャワーのあとで何か食べさせてね」
俺が嬉々として階段を駆け上ったのは言うまでもない。