水族館のような空間を走り抜けながら、俺はアイビーの携帯に電話をかけた。だが、何度コールしても彼女は電話に出ない。
パニックで血の気が引き、口の中が乾いてくる。
サム。エリザベスを抱き込んでアイビーをおびき寄せたんだな。下手な小細工なんかしやがって。あの野郎、どうあっても彼女を東京へ行かせたいのか。
メールするにも、手が震えて文字が正しく打てなかった。支離滅裂のままどうにか送信したが、判読不能なのか返信はない。
クソッ、クソッ、クソッ!
レストランを飛び出したところで駐車係が声をかけてきた。
「チケットをお願いします、サー」
バレー・パーキング(係員付き駐車サービス)というものが俺は大嫌いだ。妙に仰々しいし、場所によっては馴れ馴れしい奴もいる。
TJはどこだ? すぐに用事が済むと思えばそのまま乗っているだろうが、長くかかることが見込まれるときには自分も降りて食事や休憩をとることもある。エリザベスと食事すると言ってあったからもしかすると……。
そのとき、カリナンがゆっくりと近づいてくるのが見えた。有り難い。さすがはTJだ。俺の位置情報を常にチェックしてくれている。
後部ドアを開けようとする駐車係を押しのけるようにして、俺は車に飛び乗った。
「どちらへ?」
「『ピーチャー&サン』」
TJにそう告げながら、サムの会社に電話する。
『〝ピーチャー&サン〟でございます』
感じのいい女性の声だった。
「アイリスはいるか?」
『申し訳ございません。そのような名前の社員はおりませんが、どなたのことをおっしゃっているのでしょうか』
惚(とぼ)けているのか本当に心当たりがないのか、しゃべり方からは判断できない。
「アイリス・スミス。サムの姪だ。会いにきているはずだが」
『いいえ、お見えになってはおりません。社長でしたらあいにく本日はお休みをいただいておりますが』
「家か?」
『それはわかりかねます。伝言を残していただければ——』
俺は電話を切った。人目に付きやすい社内なら滅多なことはできないだろうと踏んでいたのだが、そこ以外となると話は別だ。
どこだ? どこにいる? まさか、無理やり空港に連れていかれて、今頃は出国手続きをさせられてるんじゃないだろうな。
この前もそうなりかけた。俺が行かなかったら飛行機に乗せられていたかもしれない。
トニー、おまえ、なぜ油断した? サムが執念深い性格だというのは昔から知ってるだろうが! ああいう人間は、つまずいても決して諦めず、成功するまで何度だって挑戦する。現に、母のところへも懲りずに通い、最終的にはまんまと金をせしめたじゃないか。
アイビーに何かあったらおまえの責任だ!
「行き先を変更いたしますか」
TJに訊かれても、じゃあ代わりにどこへ、とは指示できない。空港、港、サムの自宅、どこかのレストラン、それ以外にも行きそうな場所ならいくらでもある。
もし間に合わなかったらどうする? アイビーと永久に会えなくなったら。そんな! せっかく再会できたのに、また離れ離れに……。
そのとき、携帯がメールの着信を告げた。アイビーかと期待したが、エリザベスからだった。
〈アイリスはサムのお屋敷にいるわ〉
住所まで書き添えてある。助かった。
俺は住所を読み上げ、そこへ向かうようTJに告げた。
「急いでくれ!」
自分の声が震えているのはわかっても、どうすることもできない。
SUVがロサンゼルスの交通渋滞を縫うように走る中、最悪の事態が頭をかすめ、心臓がギュッと締めつけられる。
どうか間に合ってくれ。もう俺たちを引き離さないでくれ!
ようやくサムの豪邸が見えてきて、車が減速した。
「守衛がいるようですが、何と言って門を開けさせます?」
鉄の門に目をやってみると、造りは精巧でも、さほど頑丈ではなさそうだ。
「何も言わなくていい。突っ切れ」
エンジンが唸りを上げ、車が再度加速する。衝突に備えて身構えたと同時に門が壊れ、角にぶつかったためガツンという大きな音がした。
「くそっ!」
「凹みぐらいどうってことない。なんなら買い替えろ」
アイビーの無事な顔を見られるなら、五十万ドルなんか惜しくない。
建物の前で急停止した車から飛び出し、階段を駆け上り、勝手に玄関を開けて中に踏み入る。彼女の姿を見るまでは、内部を破壊し尽くす覚悟だ。
「お客様、困ります」
執事の服を着た細身の男が両手を広げて行く手を阻もうとするが、こんな奴、必要なら一発で倒してやる。
「アイリスはどこにいる」
「警察を呼びますよ」
「うるさい! 黙れ!」
「黙れと? ふん、貴様なんかに何も言うつもりはないわ」
執事としての威厳も礼儀もたしなみも一瞬で消え去り、本来の人間性が垣間見えたような気がした。携帯を取り出したそいつの襟首を掴み、もう一度尋ねる。
「アイリスはどこだと訊いてるんだ。手荒な真似はしたくないが、やむを得ないと判断したらその鼻をへし折ってやるがどうする?」
男は打って変わって弱腰になると、自分の鼻を手で覆って必死に訴えた。
「ら、乱暴はおやめください」
「それなら彼女の居場所を言え」
「その先のプール脇に……」
震える手で奥を指差している。
もうそいつには構わず、俺はプール目指して一目散に廊下を走り抜けた。
フレンチ・ドアの向こうにサムと一緒にいるアイビーの姿が見える。ああ、間に合った。
安堵のあまりよろめきそうになりながらも、俺は自分が奇妙な光景を見させられていることに気がついた。サムが後ろに両手をついて地べたに座り、プールに両足を浸けている。アイビーも同じく地べたにいるが、こっちは前屈みで横座り。手を膝の上に置いて俯いている。そして……、二人ともずぶ濡れだ。
何をされた? 少なくとも怪我を負わされてはいないらしいが……。
サムがアイビーに話しかけ、アイビーは驚いたように顔を上げた。何か言ったようだがここからは聞こえない。すると身体を硬直させたサムが、次の瞬間、あろうことか両手を突き出して彼女の身体を押した。
まるでスローモーションを見ているようだった。
アイビーがプールに落ちようとしている。必死で手を伸ばそうとするのに、その手は空を切るだけだ。やがて水しぶきが上がって身体が沈んでも、プールサイドでぼんやり眺めているサムは微動だにしない。
何が起きてるんだ?
アイビーが弱々しくもがいている。しかし、いったんは浮上するかに見えた身体が再び沈み始めた。
泳げないのか!
心臓が凍りつき、頭の中が真っ白になる。気がついたらドアを蹴破り、プールに飛び込んでいた。
気が狂いそうになりながら水を掻き続け、底近くでぐったりしているアイビーの許までようやく辿り着いた。彼女の身体に腕を巻きつけ、大急ぎで水面を目指す。とにかく早く息をさせなければ。
アイビー、もう少しだ。もう少しだけ頑張ってくれ!
水面の上に顔が出たときほんの少し身動きはしたが、意識があるのかどうかはっきりしない。
サムがいるのとは逆の方向に泳いでプールサイドまで来ると、俺は彼女を先に押し上げ、続いて自分もプールから上がった。
「しっかりしろ。お願いだ、目を開けてくれ!」
身体を仰向けにしたり横向きにしたりしながら必死に語りかけていると、彼女は急に激しく咳き込み始め、全身を震わせ始めた。身体のあちこちに素早く目をやったが、傷らしきものは見当たらない。少しホッとするものの、ちゃんと医者に診せないともちろん安心はできない。現に震えはどんどんひどくなってくる。
彼女がようやく目を開けた。
「トニー?」
俺は彼女をひしと抱き締め、感謝の涙を流した。ああ、助かった。
「そうだよ。ここにいる」
「トニー……」
か細い声。瞳孔は大きく開き、唇に血の気はない。その可愛い唇で目を輝かせながら「愛してる」と言ってくれたのは、ほんの数時間前のことなのに。
まただ。俺はまたしくじった。何があっても怖い思いをさせたくなかった、かすり傷一つ負わせたくなかったのに。
「私……」
彼女がまた目を閉じようとしている。
「アイリス!」
待ってくれ。誰か……。
「ここで何をしてるんだね、アンソニー」
声のするほうを睨みつけてやると、サムがプールを回ってこっちに歩いてくるところだった。向こうも俺を睨んでいるが、怒りとは別に、何かを必死で隠そうとする気配がその目から伝わってくる。
殺してやりたいと思うほどの憎しみが腹の底から湧き上がってきた。泳げないアイビーをわざとプールに突き落としたあいつを同じ目に遭わせてやりたい。頭を押さえつけて顔を上げられないようにし、溺れる恐怖を味わわせてやりたい。
だが、今は無理だ。アイビーが俺を必要としている以上、こんな奴にかかずらっているヒマなどない。
俺はアイビーを抱き上げて歩き始めた。その身体はとても軽く、とても儚(はかな)げだ。
サムが行く手を阻む。
「まだ用事は済んでない」
「どけ!」
しかし、彼はその場から動かなかった。目を血走らせ、必死の形相で立ち塞がっている。何がこいつを駆り立てているのか、俺にはさっぱりわからない。
「彼女は私の姪なんだぞ!」
「だったらなぜこんなマネをした!」
「私はただ——」
「いい加減になさい!」
甲高く鋭い声が空気をつんざいた。見ると、ロシア男を連れたエリザベスがフレンチ・ドアの前に立っている。
「エリザベス……」
サムの戦意がみるみる喪失した。
「こういうことだったのね、サム。寄付を餌に私を利用しようだなんて、どこまで卑劣なの」
「金の話ならあとでやってくれ。俺には関係ない」
「トニー」
再び歩き出した俺にエリザベスから声がかかったが、スピードを緩めるつもりはない。フレンチ・ドアを抜け、廊下を玄関へと急ぐ。
俺が知っているだけでも、セックス・ビデオ、遺産目当ての偽装結婚、全米を巻き込んだ大袈裟なプロポーズ、殺人及び殺人未遂事件……、エリザベスを含め、プライスの人間は過去にいろいろやらかし、そのたびに何らかの手段を用いてくぐり抜けてきた。つまり、駆け引きに長けているのだ。そんな奴らの一人から今ここで何を言われようと、素直に聞く気にはなれない。
「トニー、待って!」
ロシア男がこっちに向かってくる気配を感じたが、代わりにエリザベスが小走りで追いかけてきた。「お願い、聞いて——」
「今さらどんな言い訳を聞けってんだ。きみとはもう関わらない」
「私、何も知らなかったの。信じて!」
「そんなことはどうでもいい。アイリスが気を失っている。怪我をしているかもしれない。今の俺にはそのことだけが重要なんだ」
長い廊下を過ぎて玄関を出ると、TJがカリナンのドアを開けたまま押さえてくれていた。アイビーを後部座席にそっと運び、俺も隣に腰を下ろすと、彼はドアを閉めて運転席に向かった。
「このあとはどこに向かいます?」
ハンドルを切りながらそう訊いてくる。
「家」
これ以上体温が奪われないように、俺はアイビーをしっかと抱き寄せた。「ヤング先生に至急来てもらってくれ」
「それなら誰かを迎えにやらせたほうがいいでしょうね。あの医者は運転がヘタクソだから、待ってたらいつになるか」
そうだった。医者としては優秀でも、彼女の運転はひどい。制限速度を頑(かたく)なに守ろうとするために、いつまでたっても目的地に到着しないのだ。時に後ろから煽られたりもするらしい。
「じゃあ、ウェイに連絡して、連れてくるように伝えてくれ」