九年前——。
スペインのバレンシアにある寄宿学校にいた頃、近くにカトリックの小さな教会があった。敬虔な信者たちは足繁くミサに通い、年に数回は赦しの秘跡(告解)も受けていたらしい。
彼らの多くは服装にあまり気を遣わなかった。真面目にミサに与りさえすれば、もしくは正直に罪を告白しさえすれば神の赦しが得られ、服装や外見で取り繕っても意味はないと教えられてきたからだ。
だが、赦しを請う相手が母である場合、その教義は当てはまらない。それは俺自身が立証済みだ。
謝っても謝っても「赦す」とは言ってもらえず、挙げ句の果てに家から追い出されて寄宿学校に入り、卒業してからも戻ることなくニュー・ジャージーの大学に籍を置いた。
〝事件〟から九年の時を経て、俺は今、生まれ故郷のルイジアナに舞い戻ってきた。結局あれから母とは一度も顔を合わせていないが、このたび家に招かれたということは、ようやく赦してもらえる日がきたのだろうか。それとも、呼び戻したのは父の一存で、母の与り知らぬことなのだろうか。
父が空港に差し向けてくれたメルセデスを降りた瞬間、強烈な暑さと湿気に見舞われた。ギラギラと照りつける日射し、ジメジメした空気。長く故郷を離れていた俺は、真夏の蒸し暑さをすっかり忘れていた。
二階建ての大きな屋敷とそれを取り巻く庭が目の前に広がり、大理石やステンドグラスに反射する太陽の光は、蜃気楼のようにゆらゆら揺れている。
時代遅れになった元々の豪邸を取り壊して建て直したい、と祖母が我儘を言い出し、祖父がそれを近隣の人々に通達したところ、騒音が心配な彼らはあまりいい顔をしなかった。しかし、この地域の実に三割の人々の雇用を担っている我が一族に対し、表立って文句を言える者などいるはずもなく、祖父たちは素知らぬ顔でさらに大きな屋敷に建て替えた。
この家には思い出が詰まっている。人生の一番幸せだった時代と一番悲惨だった時代の両方を俺はここで過ごした。失われたものの大きさは計り知れないが、それを少しでも取り戻せるかどうかは母次第だ。
さて、母さんがどう出るか、試してみるか。
気を引き締めて玄関への階段を上った先、ドアの前に執事のジョナスが立っていた。この暑さにもかかわらず涼し気な表情で、黒のスーツをビシッと着込んでいる。俺を追い返そうとしないところを見ると、少なくとも招かれざる客とは思われていないらしい。
「お帰りなさいませ、トニー様」
覚えている通り、その物言いは至って穏やかだった。
「ただいま。母さんはいる?」
ニュー・ジャージーを出てからずっと、家で待っていてほしいという思いと不在であってほしいという思いが心の中で交錯している。
母の笑顔を見ることができるのか、それとも冷たく拒絶されるのか、どっちになるのか予測できない。
まだ怒っていたらどうする? 口も利いてもらえなかったら?
想像しただけで、手のひらに汗をかいていた。
「いいえ、サー」
ジョナスが表情を変えずに応じた。
「何時に帰ってくる?」
「申し訳ございませんが、存じ上げません」
「スーツケースを持って出た?」
「いいえ。わたくしの知る限り、大きなお荷物はなかったように思います」
緊張が少しほぐれた。
父は母を思いやる人間だから、もしも母が反対したなら俺は今ここに立っていないはずだ。プリンストン大学の卒業式に来なかったのも、俺を避けていたからではないのかもしれない。父の言葉通り、本当に身体の具合が良くなくて欠席せざるを得なかっただけなのかもしれない。それが事実なら、もう怒ってはいないはずだ。少なくとも、俺への憎しみが薄らいだということだろう?
「本日は大層暑うございますので、よろしければジャケットをお預かりいたします」
ジャケットを脱いでジョナスに手渡すと、彼は続けてこう言った。「お荷物はお部屋のほうへ運び入れておきます」
「ありがとう」
十二歳のとき追い出されて以来、初めて許された帰宅。俺は腕まくりをして、子供時代を過ごした屋敷に足を踏み入れた。
地元の名士である父は商工会議所での発言権が強く、その動向には常に関心が集まっている。地方のテレビ局で時おり特集が組まれるほどの著名人で、今回も取材が入っているという。家族のことにも触れるらしく、大学を卒業したばかりの息子が戻らないのは何かと外聞が悪い。父はそんなふうに言っていた。理由はどうあれ、母との関係を修復する機会を与えられたのは間違いない。
寄宿学校に入ってから、俺は死に物狂いで勉強した。お陰で成績は常にトップ3。勉学だけでなくスポーツも得意で、特にサッカーとポロは、自分でもかなりの腕前だと思っている。プリンストン大学でも気を抜かず、経済学の学位取得と共に首席で卒業した。両親に認められたい、誇りに思われたい一心だった。
どんなに努力したところで母さんが赦してくれるはずないだろう? それだけのことをおまえはしてしまったんだから。
確かにそうかもしれないが、努力するだけの価値はあると思った。憎しみは消せないまでも、言葉を交わす程度には譲歩してくれるのではないかと。
本物の喜びや満足感を得られないのは生ける屍と同じだ。デートをしてもそれは一時的な〝お楽しみ〟でしかないし、多数の企業から採用の内定をもらっても、このままでは空虚で無気力な状態から脱することができない。罪の意識を薄めるためにも、母からの赦しは必要だ。
屋敷の中はエアコンが程よく効いていて、ひんやりした空気が心地いい。広い玄関も、それに続く廊下も、壁に掛かった絵も、家を出たときと何も変わらない。唯一、壁際の花瓶に生けられたタイガー・リリーの花だけは、何となく母の好みから外れているような気がする。
「誰か来るの?」
来客があるとき、母はいつもその客が喜びそうな花を生ける習慣があるのだが、俺のためにタイガー・リリーを飾ってくれたとは思えない。
「どなたもお見えになりません。その花はアイビー様が生けられたものです」
「アイビー?」
「アイビー・スミス様。あなた様の従妹様でございます。夏休みのためお戻りに」
ああ、確か、俺がここテンペランからヨーロッパに追いやられて一年後に叔父夫婦が事故で亡くなり、その養女をブラックウッド家が引き取ったんだった。弟のハリーからのメールにも、アイビーという名前が何度か出てきていたが、俺は一度も会ったことがない。
「ただいまご在宅でございます。ハリー坊ちゃまも」
ジョナスはついでのように付け足した。
「へえ、ハリーか。自分の部屋にでもいるのかな」
「いいえ。おそらく東棟の居間ではないでしょうか」
「そうか。行ってみるよ」
俺は東棟への長い廊下に出た。
「キャサリンのお手本にならないから廊下を走ってはいけません」と母にしかられたにもかかわらず、俺もエドガーもハリーも、毎日ここで走り回っていた。大きな窓、所どころに生けられた花、壁に掛かった額縁入りの絵、あの頃とちっとも変わらない光景が目の前に広がっている。
*
「ママ、女の子ってさ、親の前ではいい子ちゃんぶるけど、実際は策略家だったりするんだよ」
生意気にもそんなことを言うと、ママはとても優しいまなざしでぼくの頬をつねった。
「策略家だなんて、難しい言葉を知ってるのね」
「うん。〝ずるい〟って意味なんでしょ? 女の子は目的ができたらそれにまっしぐらなんだって。ときには手段を選ばないってパパが言ってた」
「あら、そうなの?」
「あたし、そりに乗りたい!」
キャサリンがそこらじゅうを飛び跳ねながら叫んだ。ラベンダー色のドレスを着た妹は、どっからどう見てもお姫様だ。
「いいよ、乗せてやる」
ぼくは高らかに宣言した。ぼくたち兄弟が〝そり〟と呼んでいるキャスター付きのワゴンにキャサリンがお尻を乗せ、ぼく、兄さん、そして弟のハリーまで加わって、〝そり〟についた紐を引っ張りながら走る。
廊下の端から端まで何往復もしたら喉が渇いてきた。
「何か飲みたい」
「奥さまのご命令でアイスティーをご用意しております」
ジョナスが氷の浮いたグラスをさっと渡してくれた。
「ありがと。ママってすごいや。ぼくたちの喉がからっからになるのがわかるんだもんね」
ママがぼくの頬にキスしてくれた。
「トニー、あなたこそ妹思いでとても優しいお兄ちゃんよ。ママはあなたを誇りに思うわ」
泣きたくなるほどの喜びが胸に込み上げてきた。
*
遠い日々の心躍る記憶。二度と見ることのできない甘い夢。わかっていながら何度も何度も繰り返し思い出してしまう。
たとえ愛してもらえなくても、せめて赦してほしい。このままだと俺はいつまでたっても孤独なガキだ。友だちの誕生日に自分だけが呼んでもらえない寂しさ、そんな寂しさを常に抱えている。俺を救えるのは母だけだ。母からの「赦す」というひと言があれば、また昔のように家族の輪の中に入っていけるのだが……。
ピアノの音色に思考を遮られた。居間から聞こえてくるようだ。
両開きの白いドアを静かに開けてみると、広い居間の一角に白いベビー・グランド(小型のグランド・ピアノ)が置かれ、その向こうの壁が大きな鏡になっていた。どちらも昔はなかったものだ。長椅子に座った二人の人間がシューベルトの「幻想曲ヘ短調」を弾いている。二人とも演奏に夢中になっていて、俺が入ってきたのには気づかない。
手前に座っているハリーを見て、頬が自然と緩んできた。
俺が帰宅を許されなかったため、普通にこの家で顔を合わせることは叶わなかったが、長い休暇を利用してハリーと兄のエドガーがヨーロッパに来てくれ、内緒で集まったことなら何度かある。ハーバード在学中にパリ留学を果たしたエドガーとはその間気軽に会うことができたが、それも俺が大学に入るまでのことだった。入学後は勉学とバイトとで忙しく、連絡は頻繁に取り合ったものの、実際に会うことはほとんどなかった。そんなわけだから、ハリーとは本当に久しぶりだ。
弟は俺やエドガーと同じく黒髪だが、肩幅や背の高さなど、体格的には俺たちよりもやや小さい。それを誤魔化すために大きめのサイズの服をわざと着ていたのだが、今でも変わらないのだろうか。
下手くそな演奏を聞けば、たとえ目が見えなくてもハリーだとすぐにわかっただろう。だが、一緒に弾いているのは……、
向こうの鏡に映る姿を見たとき、俺はその年若い女性をどこかへ掻っさらいたいという衝動に駆られた。
ストロベリー・ブロンドの長い髪をした少女。大きなグレーの瞳は知性に溢れ、みずみずしい唇は人を惹きつけ、つんと尖った鼻が顔全体に美しいシルエットを作っている。引き締まったウエストに水色のドレスがぴったりフィットし、まだ大人になりきってもいないのに、まるで中世の貴婦人みたいな雰囲気を醸し出している。
彼女の演奏は素晴らしい。カーネギーホールでのピアノ・コンサートを思わせるかのようなプリモ(高音部を弾く人)なのだが、セコンド(低音部を弾く人)のハリーが足を引っ張っている。一小節ごとにつまずき、テンポが大幅に狂ってきているのだ。
「ハリー、頑張って練習したって言ってたわよね。なのにその成果がこれ?」
ストロベリー・ブロンドの女性がやや声を荒らげながら文句を言った。高飛車な女は好きじゃないが、この場合はハリーが悪い。あいつが真面目に練習しないのがいけないのだ。それに、姉が弟を諭すような言い方は、聞いていて不快じゃない。少なくともハリーへの恋愛感情はなさそうだ。それだけでなんだか部屋の中が明るくなったような気さえする。
ハリーが降参したように両手を上げた。
「俺は死に物狂いで努力してるんだ。これ以上どうしろって言うんだよ。カーティス(音楽院)で三年間も学んでる誰かさんと比べないでくれよな」
大袈裟な身振りと声の調子から、弟が嘘をついているのはすぐにわかった。隣に座る女性もそれを見抜いているようだ。
「まだまだ練習が足りないわね。そんなことじゃとても入学させてもらえない。さあ、もう一度最初からやってみましょう」
どんなに練習したとしても無駄だろう。ハリーに弾かせれば弾かせるほど、美しいピアノ曲が台無しになっていくだけだ。
連弾曲の「幻想曲ヘ短調」はセコンドがいないと曲として成立しないが、ハリーには無理だ。思い余った俺は、弟の肩を軽く叩いた。
「よお」
ハリーは振り向きざまに口をあんぐりと開けた。
「びっくりしたあ。今週帰ってくるとは聞いてたけど今日だったんだ?」
パッと立ち上がって俺に抱きついてくる。「メールくれれば迎えにいったのに」
「父さんが車を回してくれた」
ふうん、とハリーは俺とピアノを見比べた。「もしかして、さっそく自慢しようとか思ってる?」
「彼女も言っただろ、練習が足りないって」
俺は指の緊張をほぐしながらピアノの前に座った。「見せてやるから少しでもコツを掴め」
隣から好奇心に満ちた視線が注がれているのはわかっていたが、俺は構わず弾き始めた。セコンドから始める曲だからでもあるが、演奏前に名乗ったりして余計な先入観を持たせたくない。
エドガーやハリーから聞いた話では、俺が家を出た本当の理由は世間に対して伏せられているらしい。だが、事情を知っている人間はゼロじゃない。他の人々にしても、この家で何があったのか薄々感づいていながら、大資産家を敵に回したくないがために公然と口にしないだけではないだろうか。おそらくこの女性も、どこかである程度は耳にしているに違いない。
セコンド先行とはいえペースを作るのはあくまでもプリモだから、その役目を彼女に任せ、俺は鍵盤の上を動くしなやかな指に注意を払った。
そのピアノの腕前に改めて目を瞠る。一流のピアニストと言っていいのではないだろうか。ミスタッチもなく一拍も外さないばかりか、気持ちを込める余裕すら持っている。
柔らかな息遣いと熱気を帯びた肌がすぐ近くに感じられ、弾きながら久々の興奮を覚えていた。初めてなのに息はぴったり。互いの奏でる音色が呼応し、完璧に調和している。それはまるで、音楽を通して俺たちが一つになったかのような、不思議な感覚だ。
第一部を弾き終えて彼女の指が鍵盤を離れたとき、ハリーが拍手した。
「その腕、全くなまってないね。さすがトニー」
「そしておまえは全く進歩してないな、ハリー」
どうにか切り返せたとはいえ、それは単なる条件反射にすぎなかった。実際は名も知らぬ美少女との間に生じた一体感が消化しきれず、恍惚とした状態が続いている。
演奏中、心の重荷が軽くなったような気がした。ようやく呼吸が再開できたような解放感を味わっていた。あれは何だったのだろう。
「俺? 俺には無理だよ」
ハリーはまたしても両手を上げた。「野心も意欲も端っからないんだからさ」
それは言えてる。こいつは母を喜ばせるためだけにレッスンを続けてきたのであって、ピアノ自体に興味があるわけじゃない。メールで延々と泣き言を連ねてきていたが、俺に言わせれば贅沢な悩みだ。母に認めてもらいたくて必死で一番を取ろうとしてきた俺と比べて、こいつは努力なんかしなくても、すでに愛されているのだから。
グレーの瞳が俺に注がれていて、その頬はバラ色に染まっている。演奏直後の興奮からだろうか。それとも、俺と同じように不思議な感覚を味わったからだろうか。確かめてみたいが、方法が思い浮かばない。
彼女の指が俺の腕に触れ、そのぬくもりにゾクゾクしてきた。
「とっても素敵な演奏だったわ」
「きみの腕も悪くない」
「私はアイビー」
この子がペリー叔父さんの養女?
バットで頭を殴られたような衝撃を覚えた。エドガーやハリーから聞いた話の半分でも事実なら、母は彼女を溺愛している。俺が決して受け取ることのできないものをあっさりと手に入れた娘。もっと小さな子だと思い込んでいた。
苦い失望感に苛まれつつも、ヨーロッパで叩き込まれた礼儀作法の賜物か、どうにか紳士的な笑みを作る。
「俺はトニー」
言ったすぐあとで後悔した。親しくなるつもりのない相手にはアンソニーと名乗るべきだった。自分の失敗が信じられないが、今さら取り消すには遅すぎる。
「トニー?」
「アンソニー・ブラックウッド。家族や友人はトニーと呼ぶ」
アイビーは微笑みながら小首をかしげた。
「とすると、私をあなたのお友だちにしてくれるってこと?」
ここで〝イエス〟と答えてしまっては、母を怒らせるだけだろう。
「いや。俺たちは親戚なんだろ」
「でも血は繋がってないわよ」
彼女はなぜか慌てたようにそう言って、軽く咳払いした。「えっと、私、もうちょっと練習しなくちゃ。あと十回くらい」
付き合ってやるよ、という言葉が、咄嗟に口を衝いて出た。