プライス家の人々, 第5巻
大富豪のデイン・プライスは、祖母の遺志を継ぎ、三年間家族を陰で支えてきた。ところがある日、味気ないながらも平穏な生活が突如として終わりを告げる。以前ふらっと訪れた旅先で出会った美しい女性と思いがけない再会をしたからだ。
その女性ソフィアは、あろうことか父の再婚相手の候補だという。
義理の母親だと? そんなことは、この俺が断じて許さない。なんとしても阻止してやる。
元フィギュア・スケート選手のソフィア・リードは、亡き父が破産していたことで窮地に陥った。遠い親戚を頼る他に選択肢がない中、彼女は故郷を離れざるを得ない状況に追い込まれていく。
LAに来て心機一転、新たな道を切り開こうと模索していた矢先、かつて一夜を共にした相手が目の前に現れた。この三年間、ずっと忘れられなかった男だ。
思わぬ偶然に心躍るソフィアだが、それは一瞬で失望へと変わっていく。夢にまでみた再会の形とは程遠く、デインの目には冷たい陰が宿り、以前にも増して近寄りがたい雰囲気を身にまとっていたのである。そして、なぜか彼女を排除しようとする不可解な言動。
ようやく二人の気持ちが通じ合ったと思えたのもつかの間、七年前の悲惨な事故の全貌が明らかになったとき、事態は一変する。
過去の苦痛を乗り越えない限り、彼らに未来は訪れない。
デイン・プライスは無菌室の入り口に立っていた。
明かりのしぼられた室内は程よく温められて快適だが、壁に染みついた消毒液の匂いは、そこに横たわる人の死期が近いことを物語っている。
ベッドで静かに目を閉じているのは、デインが敬愛する祖母シャーリー。
骨ばった手を覆う皮膚は目を背けたくなるほどたるみ、その身体は前回見舞いに来たときよりもさらに萎んでいる。染めて間もない髪の毛さえも、心なしかくすんで見えた。
全身チューブだらけの姿は見るからに痛々しいが、それらから与えられる薬剤と栄養分だけで、の彼女は生かされている。
入り口に立ったまま、デインは次の一歩がなかなか踏み出せない。愛する者の死を目前に足がすくみ、どうすればよいのかわからなかった。
心臓発作で危篤状態に陥ったのは今回で二度目。年齢から考えると限界かもしれません、と医師に告げられ、デインは拳を固く握り締めた。機械が立てるビーッという音だけが、祖母にまだ息があることを教えてくれている。
おばあちゃんが最初に発作を起こしたとき、どうして誰も教えてくれなかった? おばあちゃんだけがいつも俺を気にかけてくれた。おばあちゃんだけが俺を心から愛してくれた。大事な大事なおばあちゃんがこの世から跡形もなく消えてしまったら、俺はいったいどうすりゃいいんだ?
「デイン……」
か細い声が聞こえ、デインは思わずベッドに駆け寄った。
「おばあちゃん」
彼を見上げる濁った瞳が、柔らかく微笑んだように見えた。
「あなたはロンドンにいて忙しいって聞いたけれど、絶対に来てくれるって信じていたわ」
「当たり前だよ」
手を取って節くれだった指に口づけながら、祖母に余計なことを吹き込んだ人間を彼は憎んだ。「何を置いても真っ先に駆けつけるに決まってるじゃないか。ところで、他のみんなは?」
あいつら、おばあちゃんの死に目に立ち会えなくて平気なのか。異国の地にいるわけでもあるまいし、見舞いにぐらい来たっていいものを。そこまで薄情な奴らなのか!?
デインの両親は、何でも人任せなところがある。
パリで自動車事故を起こしたときも、心配して飛んできてくれたのは祖母だけだった。すでに高齢で、身体も弱っていたのに。
父や母はといえば、事後処理のために弁護士を派遣したぐらいで、自分たちが率先して動くことはなかった。
「病室から出てもらったのよ」
祖母が軽く咳き込みながら言った。「ジェラルディンはエンジントラブルがあったらしくてまだ空港で立ち往生してるそうだし、他にはあなた以外誰も頼りにならないんだもの」
ジェラルディンというのは祖母お気に入りの娘で、デインにとっては叔母に当たる。
「僕のプライベート・ジェットを回そう。待ってて、すぐに手配するから」
病室を出ようと上体を起こすと、シャーリーの指の力が心持ち強くなった。それに比例するかのように、咳が激しさを増す。
「あなたは……、コホッ、コホッ、いい子、ね。昔、から……、そう、だった」
苦しい息の下から洩れる切れ切れの声に、デインの心臓が恐怖で締めつけられる。「でも、もう、いいの。たぶん、間に合わないでしょう」
「おばあちゃん……」
「悲しんではだめ。どんな人にも、必ず死は訪れる。神様がそんなふうにお決めになったの。それに……、わたくしは、もう十分生きたわ。いつ召されても不思議じゃない」
「そんなこと言わないで」
目頭が熱くなり、デインは急いでまばたきを繰り返した。男の涙を最も軽蔑する祖母の前で、絶対に泣くわけにはいかない。「僕たちの誰よりも長生きしてもらわないと」
シャーリーが弱々しく微笑んだ。
「孫より長生きしたい人なんて、世界中どこを探したっていないわよ」
「だったらせめて僕が生きてる間だけでも。一緒にあっちへ行けば、お互い寂しくないだろ」
「ふふ……、それは楽しそうだこと。でもね、何事も望み通りにはいかないものよ。だから」
シャーリーは驚くべき強さでデインの手を握り返した。「いま約束してちょうだい」
「何を? 何でも言って」
「あなたのお母さまのような女とだけは、絶対に一緒にならないで。あんなに意気地のない人、最初からサラザールには相応しくなかったんだわ。もっとも、サラザールもサラザールですけどね。あれだけ言い聞かせていたのに、美しいケインリスを一目見ただけで骨抜きにされた挙句、わたくしの反対を押し切って結婚までしてしまった。でもそこで終わり。つかの間の恋心なんて、すぐに冷めるものですよ」
「そうだね」
「女に利用される人生には悲劇が待ってるだけなの、サラザールみたいにね。だから一時の感情に流されてはだめ」
「わかった。約束する」
「ただし、サラザールがあなたにとってお父さまであることに変わりはないわ。だから彼が道を外しそうになったときは、どうか手を貸してやって。わたくしも母親としてできる限りのことをしてきたつもりだけれど、それがうまく機能するかどうか、見届けられそうもないから」
「もちろん見届けられるさ。でもわかった。僕も父さんから目を離さないでおくよ」
「弟たちやバネッサからもよ。あの子たちはあなたほど強くない。特にシェインは感情に流されやすくて、思い込みの激しいところがあるわ。困った立場に立たされるときが必ず来るでしょう。そのときは手を差し伸べてやってほしいの」
「わかった。それも約束する」
シャーリーがいよいよ苦しそうに息を継いだ。
「それと……、ジェラルディン、の力にもなってあげて。あっちの孫たちはあんな調子だから、頼れる人が誰もいなくなってしまう……」
張り裂けそうな胸の痛みをぐっと堪え、デインは両手で祖母の手を握った。
待ってくれ、おばあちゃん。僕の心の準備ができるまでは旅立たないで!
しかし、その言葉は胸の中にとどめ、彼はできるだけ落ち着いた声で答えた。
「わかった」
「最後に……、もう一つ」
「なに?」
「忘れなさい」
「え」
「パリでのこと」
デインは驚きのあまり凍りついてしまった。
四年前の交通事故。自分の不注意で起きたとはいえ、あの事故によってできた心の傷は、今も消えることがない。入院当初ほど頻繁ではないにせよ、事故の光景が蘇ったり悪夢にうなされたりして、時おり眠れなくなることもある。己の抱える不安や苦悩を誰にも、気の置けない友人にさえも打ち明けたことがないのに、よもや祖母に気づかれていたとは思いもよらなかった。
「あなたは運が悪かっただけなの。それにあれは過去の出来事よ。償いもきちんと済ませた。五百万ドルは十分すぎるぐらいの額だわ」
五百万!?
デインの入院中に後始末が済んだとは聞かされていたが、事後処理にいくら支払ったのか尋ねてみたことはなかった。金の有り余っているプライス家にとっては、金額など取り立てて話題にするほどでもないと思ってのことだった。
それにしても、五百万ドルとは驚きだ。他者に対して冷酷で無慈悲なプライス家の顧問弁護団のこと、よほどの事情がない限りそんな金額に同意するはずはない。事故のあと、何か深刻な事態でも生じたのだろうか。だとしたら、いくらなんでも自分の耳に入らないはずはないのだが……。
シャーリーがもう一度デインの手を握ったが、すでに力は入らなくなっていた。
「あなたが我が家の長男として生まれてきてくれて本当によかった。プライス家にとって一番の快挙ですよ。それを忘れないで」
そんなふうに言ってくれるのは祖母だけだ。他の家族はみんな、特に両親は、デインとなんか関わりたくなかったと思っているはずだ。
それでもいい。祖母が認めてくれていれば十分だ。厳格だが愛すべき、デインにとってとても大切な祖母。
言うべきことをすべて言い終えたと安堵したのか、握られた手がみるみる緩んでいった。
それが、シャーリー・プライスの最期の瞬間だった。
祖母が年老いていることも先が長くないことも、頭ではわかっていたし覚悟もしていたつもりなのに、いざその瞬間を迎えると、やはり感情が追いついてこない。
大好きな祖母の亡骸を見つめながら、デインはぐっと涙を堪えた。
泣くんじゃない。俺が来なければ、おばあちゃんは一人で旅立たなければならないところだった。それを思えば、間に合ったのは奇跡だ。
祖母の前にひざまずき、その手に額を押しつける。
彼がまだ子供だった頃、こうすると祖母はいつも頭を撫でてくれた。
――大丈夫。すべてうまくいくわ。
「あの」
肩にそっと手が置かれ、看護師の遠慮がちな声が聞こえた。「大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
へなへなとうずくまりそうになるのをかろうじて耐え、デインは気力をかき集めて立ち上がった。
俺は祖母が認めてくれた唯一の孫。他人に弱味なんか見せるわけにはいかない。
みぞれ混じりの葬式だった。
墓地の一角にはたくさんの黒い傘の花。喪服姿で勢ぞろいした家族、親戚一同が順番に追悼文を読み上げてはいるが、誰の言葉にも感情がこもっているようには聞こえなかった。
ふん。何だ、あの棒読みは。
母は完璧に手入れされた手にシルクのハンカチを握り、最も効果的な場面で涙を流す演出の機会を狙っているように見える。
自分の番が来てマイクに進み寄り、デインは人々を見渡してから口を開いた。
「私にとってシャーリー・プライスは、誰よりも偉大な人でした。あの根性と勇気、物事の先を見通す眼力は、敬服に値します。彼女は時に私を励まし、時に叱ってくれました。そうして期待を寄せてくれていました。ですが私自身、その期待に応えられるかどうか自信はありません」
母が恥ずかしそうに俯くのが見えた。いつもそうだ。自分の望む通りの生き方をしてくれない長男を情けないと思っている。
でも、俺は全然気にしない。母さんに理解してもらえなくても、おばあちゃんはわかってくれていたから。
葬式のあと、数人がお悔やみを伝えにきたが、デインにはおべっかにしか聞こえなかった。その中の誰一人として、祖母の死を本気で悼んでなどいないと見抜いていたからだ。
「気を強く持つんだ。我々がついているから、辛いときはいつでも言ってきなさい。相談に乗るよ」
「ふん、どの口が言ってる。大きなお世話だ。いいからとっとと失せろ」
デインの剣幕に恐れをなしたかのように、弔問客らはすごすごと帰っていった。
唾を吐きかけられなかっただけでも有難いと思え。
このままここにとどまって無用な争いの種をつくるのも馬鹿馬鹿しいと、デインは回れ右して自分も墓地をあとにする。歩きながらポケットに手を突っ込んで携帯を取り出し、オフィスに連絡を入れた。
「今後三週間の予定をすべてキャンセルしてくれ」
電話の向こうでしばし沈黙があったのち、
『……承知しました』
と秘書が答えた。『ご連絡はどちらに――』
秘書が言い終える前に、デインはさっさと電話を切った。