忘れえぬ面影シリーズ, 第5巻
レストランのオーナー、ブレイン・デイビスは、会ったこともない父親からの財産分与を拒み続けている。
ある日、彼の住む町に絶世の美女が現れ、小さな町は瞬く間に彼女の話題で騒然となった。
美貌の女に近づいても碌なことはない。
そう思っていたブレインだったが、その魅力に抗うことはできなかった。
美しく洗練された女性、キャサリン・フェアチャイルド。彼女が訪れたのは南部の小さな町。離れて暮らす息子の様子を見て来て欲しい、と古くからの友人に頼まれたのだ。その息子の名はブレイン。
最初はまったく罪の意識を感じなかったものの、そのうち彼を騙しているような気がしてきて、キャサリンは次第に落ち着きを失っていく。しかし、彼女には大富豪の許へ嫁ぐという目標がある。ブレインに心を盗まれでもして、それを見失うようなことがあってはならない。
——アトランタ。
ホテル近くの高級感漂うビストロで女が一人、物憂げにコーヒーを啜っていた。
彼女の名はキャサリン・フェアチャイルド。すれ違う誰もがハッと振り返りたくなるほどの美貌の持ち主で、本人も十分それを自覚している。
ここのコーヒーの淹れ方は抜群だ。でもカップが繊細すぎて少し残念。ちょっとでも力を入れたら壊れてしまいそうで持ちにくい。
キャサリンは居心地の悪さを感じ、左腕にはめた腕時計をちらっと見た。ホワイトゴールドにダイヤモンドがあしらわれた最高級の時計である。もうすぐ十時になるところだった。
サラザール・プライスという男は何かにつけてだらしのない人間だが、時間に関してだけは誰よりも正確である。
案の定、一分も経たぬうちに本人が現れ、店の入口で立ち止まって人を探す素振りをした。キャサリンのほうは合図を送るつもりなどなく、サラザール・プライスを第三者の目でじっくり観察できるいい機会だと思っていた。
もう六十代半ばに達しているはずだが、かなり若々しい印象だ。軽く六千ドルはしそうな紺のスーツが身体にぴったりフィットしており、普段からジムで鍛えているのが窺える。髪はスタイリッシュに切り揃えられ、こめかみの辺りが少し銀色なのを除いては、品の良いブラウンに染められている。
キャサリンを探し当てたサラザールが手を上げて近づいてきて、
「やあ、待たせてしまったかな」
と、愛想よく尋ねた。足元の革靴はビストロの床よりもピカピカに磨かれている。
「いいえ」
キャサリンはそう言って立ち上がり、礼儀正しくハグをした。
「相変わらず綺麗だね」
向かいの席に腰かけながらサラザールが言った言葉は、決してお世辞ではないだろう。
「どうも」
いつもより時間をかけて手入れした甲斐があった。目の下のクマは化粧で入念に隠し、青白い肌は頬紅で上手く誤魔化した。艶を加えた長い髪も背中で波打っている。そして、クリーム色のワンピースという今日の服装は、身体のラインを美しく引き立ててくれるものだ。
ここ一年ほどの間にキャサリンの身に起きたことといったら……、世界が粉々に砕け散ってしまったとでも表現したらいいだろうか。しかし、負けず嫌いな彼女は誰からも同情や憐れみを受けたくはなかった。どんな状況にあっても、キャサリン・フェアチャイルドは常に完璧でなければならないのだ。
「お元気そうね」
「まあ、なんというか……、ぼちぼちやってるよ」
薄いグレーの瞳がこちらの顔色を窺う様子に、キャサリンは内心で訝しく思った。
「変わりはないかね? 電話したら今アトランタにいるというから驚いたよ。知り合いでもいるのかな」
「いいえ。ちょうど母に会いにチャールストンまで行った帰りなの」
結婚生活が破綻したという報告を何ヶ月も先延ばしにしてきたキャサリンだったが、これ以上黙っておこうにも噂が広まりすぎて隠しきれなくなってしまった。そこでやむなく母親と直に会って話してきたのだ。
サラザールが目元に皺を寄せた。
「そうかい。で、どうだった、久々の里帰りは?」
「一時間で帰ってきちゃったわ」
母は昔から自分本位の女だった。彼女の言った言葉が心の中に蘇る。
——あなたには学習障害がある、なんて先生がおっしゃるのよ。全く失礼しちゃうわよ。そりゃ確かにあなた、決して頭が良くはないからそう言われても無理ないわ。でもね、わたくしがお腹を痛めて産んだ子よ。変なレッテルを貼られては迷惑なの。このわたくしが許しませんからね。先生には断固抗議しなくては。
「オリビアはきみに対して少し厳しすぎる。見ていて可哀そうになるよ」
ため息を一つついて、サラザールはウェイトレスに合図した。「クリーム・ペストリー二つとチョコレート、それにコーヒーを頼む」
ウェイトレスが注文を書き終えて行ってしまうと、彼は前に身を乗り出して囁いた。
「あの人の言うことなんか、いちいち気にしなさんな」
「努力はしてるんだけど……」
キャサリンは寂しく微笑んだ。「チャールストンになんか行かなきゃよかった。ヒューストンの家に閉じこもってた方がよっぽどマシだったわ」
自分の抱えるやり場のない怒りや悲しみを、もしかしたら母が癒してくれるかもしれないと少しばかり期待してしまったのだ。オリビアに慰められたり優しく抱き締められたりしたことなど、今まで一度もないというのに。
「だが、あそこにいたらジェイコブに出くわしてしまうかもしれないんじゃないかな。ほら、荷物を取りに寄ることだって考えられるだろう?」
キャサリンの夫、ジェイコブ・ロイドがラスベガスのストリッパーと駆け落ちしたというのは周知の事実で、サラザールも当然知っている。しかも、そのストリッパーこそが本当の妻で、キャサリンよりも前に結婚していたという。重婚という裏切りだけでも屈辱的なのに、話はそれだけで終わらなかった。時期を同じくしてファミリー・ビジネスが経営不振に陥り、ロイズ家の人間から横領の疑いをかけられてしまったのだ。
義弟の、いや元義弟のイーサンは今も社内監査を継続しており、財政上の問題を徹底的に追及していく方針を変えるつもりはないようだ。巨大な権力を掌握するロイズ一族なら、身内のためにどんなことでもするだろう。家長であるジェイコブを庇おうと、すべての罪をこちらになすりつけるつもりに違いない、とキャサリンはビクビクしていた。こうなったら屈辱的などという生易しいものではない。もはや絶望の淵に追いやられたも同然だ。
「ちょっとした提案があって電話したんだ。お気に召すといいんだがな。せっかくアトランタに来てるんだ。どうせならこのままテネシーまで足を延ばしてはどうかね」
サラザールは背もたれに寄りかかり、何気なさそうに言った。
「テネシー?」
「そうだ。クーターズ・ブラフという名の小さな町があって、これがまた映画に出てくるような趣のある町でね。そこに私は家を持っている。決して大きくはないが、居心地は保証しよう。必要なものは何でも揃ってるし、掃除や洗濯、料理など全て手伝いの人がしてくれる。そこへ行って、テニスでもしながらしばらくのんびりしてきたらどうだい。嫌なことは忘れてさ」
キャサリンは、急にそんなことを言いだしたサラザールに疑問を感じた。
「クーターズ・ブラフねえ。そこに何があるのかしら」
サラザールという男は、決してただで何かをしてくれる人間ではない。これにはきっと裏があるはずだ。「ただのんびりするだけじゃないんでしょ?」
「腹が減ったときに『ライン』という店で時たま食事をしてくれるだけでいい」
それだけ? キャサリンは少し驚いて、
「そこを買収するかどうか迷ってるの? それで私に偵察してほしいとか」
と尋ねた。
「まさか。そんなのはマークの領域だ。私には興味ないね」
マークというのはサラザールの息子の一人で、『ラ・メール』を始め高級レストランを次々成功に導いているやり手だ。
「実はオーナーの男について調べてもらいたいんだ。ブレイン・デイビスというんだが」
ウェイトレスがサラザールのオーダーしたものをテーブルに並べ、キャサリンのカップにコーヒーを注ぎ足して戻っていった。
さっそくペストリーをひと口かじると、サラザールは自分の携帯を取り出して何事か操作し、そのままキャサリンに差し出した。彼女はそれを手に取って画面に目を凝らす。
そこには三十代前半だろうか、男の姿が映っていた。パイロットがかけるようなサングラスをしているので、目元は全く見えない。やや長めの髪が首の辺りまで伸び、殴り合いの喧嘩で骨折でもしたのか鼻が少し曲がっている。真一文字に結ばれた口からは意志の強さが窺え頼もしくすらあったが、残念ながら洗練さには欠けていた。明らかに上流社会の人間ではない。
ということは、サラザールの娘の恋人ではなさそうだ。娘のバネッサはそもそもデートする暇もないほど多忙な上、四人の兄弟たちがいつも目を光らせている。だから、たとえこの写真の人物が彼女にちょっかいを出そうとしているのだとしても、キャサリンは自分に出番があるとも思えなかった。
携帯を返し、この人がどうかしたの? と問いかけると、
「息子なんだよ」
サラザールがさらっと答えたので、キャサリンは今度こそ驚いて目を見開いた。
「どういうこと?」
「いやあ、お恥ずかしいんだが、ジョージア・ラブという女性との間にできた子供でね。まあその、若気の至りというやつだ」
「ジョージア・ラブ? なんだかお酒の名前みたいね」
「まさしくその通りだよ。人を酔わせて狂わせるような魅力を持った女性だった。数年前に亡くなったがね」
気のせいか、サラザールの眼差しが愁いを帯びたように見える。
「それはお気の毒に。奥様はご存知なの?」
サラザールは手をヒラヒラ振りながら、いや、まだだ、と言った。
「私自身つい最近知ったばかりなんだよ」
「それで、私に何を調べさせたいの? 婚外子の彼に子供でもできて、その子が本当にあなたと血が繋がってるかどうかを知りたいとか? やっとおじいちゃんになれるかもって」
サラザール・プライスが孫を欲しがっているというのは誰でも知っている。
「違う」
彼は大げさにため息をついた。「ブレインはまだ独身だ。できればあいつを家族の一員として迎えたいと思っている」
「ケインリスが文句を言わないかしら」
そんな屈辱、自分なら耐えられない。
「ケインリス? どうしていちいち妻にお伺いを立てなきゃならん?」
「油断してると離婚を切り出されるかもしれないわよ」
「彼女はそんなバカなことをしない。私と離婚なんかすれば手許に何も残らないと知ってるんだから。離婚理由がなんであってもな」
キャサリンは相手の顔をまじまじと見た。
「それはちょっと楽観的すぎると思うけど」
「そうは思わんね。婚前同意書がある。母が彼女にサインさせたものだ」
驚きが顔に出ていたのだろう。サラザールはこう続けた。「母は、私と結婚したいという女を誰であれ信用しなかった。十億ドル以上の資産家なら別だがね。将来的に万一離婚が決まった場合でも、プライス家の財産が相手に渡らないように守ってくれたんだ。そのお陰でケインリスはいちいち騒ぎ立てたりできない」
なるほど。
この新しい情報を頭の中で整理しながら、キャサリンは静かにコーヒーを啜った。
「じゃあ、そのブレイン君を今まで存在すら知らなかった家族のところへ連れて来て、一緒に住もうというのね」
「できればそうしたい。一緒に住めないまでも、少なくとも十分な金は渡したいと思っている。プライス家の人間なのに財産分与に預かれないとしたら、それはおかしな話だと思わないか」
「投資信託をつくってあげたの?」
「ああ。五千万ドル程度の一般的なやつだがね」
「レストランの経営者にとっては結構な額じゃない。それで何が問題?」
「あいつめ、断ってきたんだ。弁護士の説明が悪かったのか、私からは何も受け取りたくないと言ったそうだ」
「五千万ドルでしょ。そんな大金を受け取らないってどういうことよ」
そのブレインという男、余程金が有り余っているのだろうか。そうでなければ喜んで口座番号を教えるはずだ。少なくともキャサリンならそうする。
「わからない。そこできみの出番だ」
「私はどういう役回り?」
「ほら、きみみたいに美人で最高に魅力的な女性が頼めば、どんな男も断れまいよ」
この人は何もわかっていない。もしも私がそこまで魅力的なら、五年もの間生活を共にした相手からポイと捨てられたりはしなかったはずだ。
しかし、そんなことを口にして自分をますます惨めにしたくはなかった。スキャンダルの概略を世間が知るところとなったのは致し方ないが、詳しい経緯を説明して回るほど、キャサリンはお人好しではない。
「クーターズ・ブラフに出向いて、ブレインと話してみてくれないか」
サラザールは続けた。「プライス家の一員となるよう、それとなくでいいから説得してほしい」
「あなたが解決できないものを私が代わりにできるとも思えないんだけど」
「そこはそれ、きみの魅力を如何なく発揮してさ。説得が無理なら、せめて息子と接触できる方法を探ってみてもらえないだろうか。今のところ頑なに拒まれる一方で進展がないんだ。どうにかして話がしたい。それだけが今の私の望みなんだよ」
この話は断った方がよさそうだ。自分には荷が重すぎる。そう判断したキャサリンが口を開きかけると、表情から察したのかサラザールの口調が少し変わった。
「きみも知ってるだろう。私は律儀な男だ。もし頼みを聞き入れてくれたら悪いようにはしない。将来きみが何かで困るようなことがあれば、必ず手を貸すと約束する。そこのところをよく考えてみてくれ」
そうまで言われては、とキャサリンは腕を組んで長考に入った。
ロイズ家、というよりロイズ・デベロップメントにおける自分の立場は非常に危ういものだ。下手をすると刑務所送りにされかねない。そんな恐ろしい状態に身を置いている以上、いざというとき味方になってくれる人間が必要だ。ロイズ家の持つ影響力も大きいが、プライス家も決して引けを取らない。その当主のサラザールが後ろ盾になってくれるなら、これほど安心できることはないといえよう。かといって、気楽に引き受けてよいものだろうか……。
「いつまでに結果を出したいの?」
サラザールの肩の力がふっと抜けたように見えた。
「期限なんか別にないんだ。好きなだけ時間を取ってくれていい。私は気長な男だからね」
じゃあこれを、と言って、彼は鍵の束と紙切れをキャサリンの前に置いた。
「うちの住所が書いてある。自分の家だと思ってくつろいでくれるね」
キャサリンは諦めたようにため息をついた。
「様子を見て気がついたことがあったら報告する。そしてチャンスがあったら話をしてみる。それ以外のことは何も約束できないわ。だからあんまり期待しないで」
サラザールはペストリーをきれいに平らげた。
「ああ、それで十分だとも」
* * *
ジョージアを北に抜け、車はすでにテネシー東部に入っていた。大きな平野を分断するようにフリーウェイが走っている。四レーンもある道路に他の車の影は見えない。
新緑の季節には程遠く、裸の枝を伸ばした木々だけが道路わきにずらりと並んでいる。もう少し暖かくなれば新芽が吹き出して、やがて青々とした葉が茂り、野生の花も咲き乱れるのだろう。その頃にはこの辺りも色鮮やかになるのであろうが、今は荒涼とした風景が広がっているばかりだ。しかし、寂しさの中にも大自然の美しさがそこにはあり、キャサリンは畏敬の念すら覚えていた。そして、空はどこまでも青い。
あのサラザールが家まで買ったというからには、〝映画に出てくるような趣のある町〟というのはまんざら大げさでもあるまい。南部独特の町並みと、焼きたてのアップルパイの香りや温かいもてなしが待っているのなら、言うことなしである。
車内の心地よい静寂を破るように、ベートーベンの第五交響曲が突然鳴り始めた。また母からの電話だ。これで何度目だろう。そろそろこちらが避けていると気づきそうなものなのに、相手は全く意に介していないようだ。
キャサリンは呼び出し音を無視し、アストン・マーチンのフロントガラス越しにまっすぐ前を見つめた。
まもなく曲が鳴り止み、肩の力を抜いてホッとため息をつく。
——やはりわたくしの言ったとおりになったでしょ。だからジェイコブなんかやめとけばよかったのよ。こうなったからにはさっそく次のお相手を探さないといけないけど、今さらその歳で理想の縁談が来ると思わないほうがいいわ。でもねキャサリン、神様があなたに〝知性〟をお授けにならなかったのには理由があるの。人間は誰しも公平でなければならないものね。知性の代わりに与えられたもの、それは〝美〟よ。他になんにも取り柄がなくても、あなたには美しさがある。それを有効に使わなくてはね。
優雅で上品な口調とは裏腹に、オリビアの言葉はいつもトゲを含み、ときにはこうして鋭利な刃にもなるのだ。その刃がキャサリンの心をずたずたに引き裂く。
——あなたの持つ美しさは、お酒で言えば一七八七年物のシャトー・ラフィットね。決して安物のビールではないの。そこらにいる男の人にはもったいないわ。その美に見合う暮らしをさせてくれる人を、みごと射止めてごらんなさい。相手の外見は二の次よ。わたくしの言ってる意味、わかるわね。
ジャジャジャジャーン♪ またしても『運命』が流れ始めた。さんざん人を傷つけておいて、まだ足りないというのか。
キャサリンは盛大なため息を一つついて電話を取った。
「もしもし、お母さま」
『まあ、ようやくつかまったわ! 今どこにいるの?』
「運転中よ」
『いったいどうしたの? 急にいなくなったりして』
「最初から長居するつもりじゃなかったから」
本当は嘘だった。チャールストンにはもう少し滞在して、今後の身の振り方をじっくり見つめ直そうと考えていたのだ。ところが、結婚の失敗についてくどくど嫌味しか言わない母にうんざりし、気がついたら家を飛び出していたのである。
『そう……』
短い沈黙ののち、『さよならも言わないなんて、失礼だとは思わなかったの?』
オリビアが不満を口にした。
「ごめんなさい。考えなしだったわ」
『どこで育て方を間違えたのかしら』
その言い方はまるで、わたくしはちっとも悪くないのに、できの悪い子が生まれたばかりに不愉快な思いをする羽目になったわ、と不平をこぼしているように聞こえる。母はいつもそうだ。一度でも温かい言葉をかけてくれた試しがない。
「用事はそれだけ?」
キャサリンは電話を握り締め、極力平静を装って尋ねた。
『いいえ。マーク・プライスのことよ。彼がヒューストンに新しくお店を出すって知ってるわよね。絶好のチャンスじゃない』
「チャンス? 何の?」
電話の向こうから、オリビアのじれったそうなため息が聞こえた。
『高級レストランをヒューストンに開くのよ。彼を手伝うにはあなたが打ってつけでしょ』
オリビアの言う〝手伝う〟とは、相手を誘惑して結婚に漕ぎつけろという意味だ。
「お母さま、冗談はやめて。彼はギャビンととっても親しいのよ。きっと私の悪口を吹き込まれてるはずだわ」
ギャビンというのは偽夫ジェイコブの弟なのだが、そればかりかキャサリンの元カレでもある。最後に会ったときの様子からして、キャサリンについて悪く言うことはあっても、その逆は考えられない。
『そんなの関係ないわ。マークだったら釣り合いが取れると思うの。プライス家はなんといっても名門ですからね、ロイズ家みたいなぽっと出とは違って。彼なら外見も申し分ないし、なによりサラザールもケインリスもあなたを気に入ってるわ』
「気に入られてたらなんだっていうの?」
『なんであれ、使えるものは有効活用しなくては。言ったでしょう。じっくり選べる立場じゃないのよ。もう二十八にもなるんだから』
「まだ十分若いつもりだけど」
『何を言ってるの。十八の子と比べてみなさい。あなたなんてもう化石よ』
化石! これが娘に向かって言う言葉!?
キャサリンは急に息苦しくなって、車の窓を開けた。
「電話を切るわね。トンネルに入りそうだから」
『わかったわ。この件でまた電話す——』
もうたくさん!
衝動的に『切』ボタンを押し、そのまま携帯を叩きつけるように窓から放り投げる。固い地面にぶつかって粉々になった物体が、バックミラー越しにチラリと見えた。
〝現実をちゃんと見なさい。目を背けて何になるの〟
母の押しつけがましい声が聞こえてくるような気がして、キャサリンは耳をふさぎたくなった。
十八の子と比べられるなんて。
自分が若さ弾けるティーンエイジャーでないのは、言われなくてもわかっている。お金が有り余っているわけじゃないことも、他者と比べて知能が劣っていることも……。
ああ、諸々の悩みを相談できる相手が欲しい。せめて従妹のアマンディーンにもう少し優しく接しておけば、苦しい胸の内を聞いてもらうこともできただろう。しかし、今となってはそれも無理な話だ。ギャビンの妻である以上、アマンディーンもロイズ家の肩を持つに違いない。
後悔の気持ちが胸にひしひしと押し寄せる。
ふいに何もかもが嫌になり、急ブレーキをかけて車から飛び出した。一陣の風がキャサリンの髪をさっとなでていく。
「ああっ、もうイヤ! 私にどうしろって言うの。誰か教えてよーっ!」
声を限りに叫んでみても答えが得られるはずはないのだが、鬱積したネガティブな感情が心なしか軽くなったような気がする。頬はいつしか涙で濡れていた。
自分はどうして泣いているのだろう。涙など流しても何の解決にもならないのに。ジェイコブの重婚が発覚したときに枯れるほど泣いた。それでも状況は悪くなるばかりだったというのに……。
結局は母の意見に従ったほうがいいのかもしれない。マーク・プライスはあちこちの女に手を出しているようだが、夫にするなら申し分のない相手だ。家柄もいいし、彼の両親は自分に好意を持ってくれている。マーク自身も金持ちで、仕事でも成功している。そこが一番のポイントだ。男はステータスこそが全て。一緒にいる男によって女の地位も左右される。彼がハンサムなのはボーナスのようなもの。正直マークに対して情熱は感じないが、それがどうしたというのだ。身を焦がすような想いでフットボール選手とデートした高校生の頃の自分とは違う。ベッドインするときは何か興奮できることを想像すればいい。相手に満足を与えられさえすればそれでいいのだ。
それに、とキャサリンは姿勢を正した。私はまだまだいける。化石なんかじゃない。しみ一つないきれいな肌をしているし、テニスやヨガで鍛えた身体はほっそりと引き締まっている。クローゼットに溢れかえるデザイナーズ・ブランドやオーダーメイドの服は、そんな私を美しく輝かせてくれる。
そう、全て大丈夫。この美貌だけは私の取り柄。
さっそく新しい携帯を手に入れよう。母には絶対に番号を教えない。そしてサラザールの言っていた小さな町に行って、少しのんびり過ごそう。そのうち心の傷も癒され、自信も取り戻せるに違いない。どうやってマークを落とすかをあれこれ考えるのも楽しそうだ。
車に戻ってカーナビをチェックすると、『クーターズ・ブラフまであと六十五分で到着予定です』と機械の声が告げた。
キャサリンはコンパクトを取り出してメイクを直し、髪も手で器用に梳いて元通りにした。
一時間後には、きっといつもの私に戻っているわ。