忘れえぬ面影シリーズ, 第4巻
一人前の男になる!
ピート・モンローは必死に勉強して必要な資格を取り、必死に働いて金儲けもしてきた。全てブルックに認めてもらいたいがためだ。この気持ちは決して中途半端なものじゃない。
もうこれ以上待つのはイヤだ。今行動に移さないでいつ移す? 彼はそう心に決めてアタックを開始した。
親友の弟への恋心を胸に秘めながらも、敢えて考えないようにしてきたブルック。しかし、長年のあいだ没交渉だった相手のほうから急に近づいてこられては……。
二人は過去に一度過ちを犯しかけた。あのときのことが強烈な記憶として残っているのは事実だ。しかし、アマンディーンを心配させてはいけない。可愛い弟には幸せな結婚を望んでいるに違いないから。そう自分に言い聞かせて気持ちに蓋をしようとする彼女だったが、一方でモヤモヤする想いを持て余してもいた。
(前略)
日曜の午後だというのに、ロサンゼルス方面へ向かう道路はさほど混んでいなかった。
それにしても、姉たちが元の鞘に収まってよかった。ついこの間まで、別れてやる! などと騒いでいたのに、今じゃすっかり満たされているらしい。離婚の危機にあったことすら忘れているように見える。
ブルック自身の生活も安定している。三年前に買った新車のローンは、法外な給料のお陰で完済できた。しかも、今の仕事はすこぶる楽だ。なにしろ日がな一日、親友と一緒にいるだけでいいのだから。
にもかかわらず、何かが足りないと感じてしまうのは贅沢な悩みなのだろうか。
英文学などという、就職には何の役にも立たない学士号を持っているだけの独身女。そんな女が大都会ロサンゼルスで一人暮らししていては、父親に心配をかけるだけだ。ここらが年貢の納め時かもしれない。
お医者ねえ。とりあえず教会に行くだけは行ってみようかな。
駐車場に車を停め、降りようとしたところで携帯電話が鳴った。馴染みのない番号ではあるが、アマンディーンのアシスタントという立場上、知り合い以外から電話を受けることはよくある。それでブルックは何気なく〝応答〟をタップした。
「もしもし」
『やあ、ブルック』
聞き覚えのある声に、全身が一瞬で金縛りに遭ったような気がした。
『ピートだけど』
「え、ええ、久しぶりね」
ピート・モンローはアマンディーンの弟である。「突然どうしたの?」
短い沈黙のあと、ピートが言った。
『近くに来てるんだ。ちょっと早いけど晩飯でも一緒にどうかなと思って』
「えっ、でもまだ五時半よ。お腹なんか空いて——」
グーッ。
言った端からブルックの腹が盛大な音を立てた。
しまった。今のを聞かれただろうか。やはり姉のところでグレービーチキン・ヌードルを食べてくるんだった。多少マズくても恥ずかしい思いをするよりはマシである。
『もう少し遅くする? 何時がいい? 待つよ。きみんちの近くに中華の旨い店があるって姉さんから聞いたんだ。ウォン・ロータスだっけ?』
店の名前を聞いた瞬間、バターソースのたっぷりかかった熱々のロブスターが鮮やかに頭に浮かび、ブルックは無意識に舌なめずりをしていた。
『そこで食べようよ。な、いいだろ。奢るからさ』
奢り! それを早く言いなさいよ。ロブスターに目のない彼女は一も二もなく承諾する。
「いいわ。じゃあ、十五分後にお店の前で」
しかし、電話を切った直後、早くも後悔の念が押し寄せてきた。
ブルックは運転席の背もたれに背中を預け、バックミラーで化粧のチェックをした。アイメイクは崩れていないが、口許が少し寂しい。バッグに手を突っ込んで中からチューブグロスを見つけると、蓋を開けて唇の上に丁寧に塗った。
これでよし、と。
化粧を直したのはピートのためではない。断じて違う。これはただの……、身だしなみだ。そう自分に言い訳しながら、レストランに向かって歩き始める。
ピートは飛び級でスタンフォード大学に進学し、そこで数学の学位を取得したのち、首席で卒業したと聞いている。就職先もよりどりみどりで、あのスターリング&ウィルソンからもお声がかかったらしい。それなのになぜオファーを受けなかったのだろう。暑すぎるテキサスには行きたくなかったというなら、他の大手だっていくらでもあっただろうに。ギャビンの会社が大きくないというのではない。ただ、他社の本拠地はおおむねニューヨークに集中しているが、ギャビンの場合はロサンゼルスを拠点にしている。金融のプロを目指す者にとって、ウォール・ストリートで働くことこそ憧れなのではないのか。
十分足らずでレストランに着くと、ピートがすでに外で待っていた。昔の面影はなく、目の前にいる男はアルマーニのスーツとピカピカの靴がよく似合う。当たり前の話だが、背もずいぶん伸び、身体も逞しくなっている。ツンツンだった黒髪もきちんとセットされ、端正な顔立ちを一層際立たせている。尖った顎、高い頬骨、刺すような青淡色の瞳、そのどれをとっても少年のあどけなさは残っていない。
「こんな場所に何の用事があったの?」
「いやあ、仕事が早く終わったからね」
日曜日にスーツを着ている理由はわかったものの、こちらの質問の答えにはなっていなかった。しかし、あまり深くは追及すまい、今はまだ。
「一番高いものを食べてもいい?」
「もちろん! なんでも好きなものをオーダーしなよ。そのつもりで誘ったんだから」
と言って、ピートがニヤッと笑った。
彼にエスコートされてドアを開けた瞬間、肉の焼ける香ばしい匂いに包まれ、ブルックの食欲は大いに刺激された。
時間が早いので客はまばらだが、あと一時間もすれば店内はごった返してくるだろう。この店は日曜だけの特典として、先着五十名に春巻きが振る舞われる。それ目当ての客が我も我もと押しかけてくるのだ。
店主の息子だろうか、スーパーマンのTシャツを着た若いウェイターが歩み寄り、二人を窓際のブースへ案内してくれた。
ブルックは広東風ロブスター、チンゲン菜とキノコの炒め物、それに炒飯を、ピートはロブスターと焼きそばをそれぞれ注文した。
オーダーを厨房に通して戻ってきたウェイターが、春巻きをテーブルに置いて再び立ち去った。
ブルックはさっそくそれを一つ手に取って口に運ぶ。歯と歯の間でサクサクと小気味良い音がする。野菜と肉のバランスが絶妙だ。
「ほんっとに久しぶりね。元気だった? もう一度訊くけど、突然どうしたの?」
「突然ってわけじゃない。ディナーに誘いたいって、ずっと思ってたんだ」
「ピート……」
「なんだよ。嘘ついて欲しかった?」
「そ、そうじゃないけど、食べながら何か話したいことでもできたのかと思ってた」
「話したいことならいろいろあるけど、急に思いついたんじゃないよ。きみのこと、忘れた日はなかった」
「ピ、ピート! 私たち、こんなふうに会っちゃいけないの。わかるでしょ」
「わからないね」
「だけど、どう考えてもマズいと思う」
「何年も前に起きたことを言ってんの?」
あのとき何をしたのかが思い出され、ブルックの頬がみるみる熱くなる。
「そうよ。本当に大変なこと仕出かしちゃって」
「そうかな。俺にとっては人生最良の日だった」
「何を言うの。私は十八、あんたはほんの十五だったのよ。法律上は許されないことだわ。未成年者に対する『不適切な行為』ってやつよ」
「はっ、きみこそ何を言ってる。俺たち、最後までヤッてもないじゃないか」
ブルックが春巻きの最後の一かけらを飲み込むと、ピートが自分の分を彼女の皿に載せてくれた。
「そんなの、どっちだって同じことよ。間違いは間違いなのっ!」
「あのさブルック、俺はもう十五のガキじゃないんだぜ」
わざわざ言われなくてもわかっている。あの痩せっぽちのピートはもうどこにもいない。
低く深みのある声には自信がみなぎり、厚い肩や胸は頼もしいとすら感じる。あの胸に顔を埋めたら、どんなに心が安らぐだろう……。
空想の世界に入りかけたところで、注文した料理がテーブルに並べられた。
ロブスターはいつも通りの美味しさだった。そのみごとな味付けにブルックの口からため息が漏れる。これから先、宝くじに当たるなどして自分がどんなに金持ちになったとしても、この店に通うのだけは決してやめないだろう。
食器やフォークが安っぽくても、内装がお粗末でも、味さえ良ければ人々はやって来る。見てくれなんか気にしない。そういった意味で、ウォン・ロータスはこの町一番の中華レストランであった。
ふとピートを見ると、彼の瞳が暗く翳っていた。
「もし……、もしもだよ、今日が初対面で、俺が姉さんの弟じゃなかったらどう? それでもやっぱり駄目なのかな」
「あのね、会うのは今日が初めてじゃないし、あんたはアマンディーンの弟。そして私はあの子の親友なの。この事実は消えてなくなんないのよ。なに訳のわかんないこと言ってんの」
「訳のわからない? 違うね、きみは俺の仮説から目を背けている。そこから——」
「はい? あんたの何を何してるって?」
「そこから導き出せる結論は一つしかない」
ブルックは途端に居心地が悪くなって目を泳がせた。
「いったい何の話よ」
「相手を意識してたのは俺だけじゃなかったってことさ」